死の党[Party of Death]の台頭
ピーター・フレイズ(Peter Frase)
酒井隆史 訳
以下に訳出したのは、『ジャコバン』誌のウェブ版に2020年3月24日づけでアップされた、社会学者ピーター・フレイズによるCOVID-19パンデミックについての論考である。
『ジャコバン』誌は、ポスト2011年(オキュパイ運動以降)の、いわば「新世代」の理論的・政治的傾向を代表する(多数あるなかのあくまでひとつの)雑誌であり、リアルでもオンラインでも質の高い記事をつぎつぎと公表している。「サンダース現象」は、このような多数の知的発信によってひそかに支えられているといえよう。ピーター・フレイズも新世代の社会学者といってよい。
かれの著作『四つの未来──資本主義以後の世界の諸ヴィジョン』(Peter Frase, Four Futures: Visions of the World After Capitalism, Verso, 2016) は、いま活性化をみせているポスト資本主義論を四つの未来のシナリオとして手際よく圧縮/整理することで、わたしたちの目の前にどのような地平がひらかれているのかを平易に提示してくれた。
タイトルにあるように、わたしたちのこの世界の地平には四つの未来がひらかれている(これらはつねに絡まり合ったり接合したりするので、純粋に発現することはない)。コミュニズム、ソーシャリズム、レンティズム、エクスターミニズム(絶滅主義)である。それぞれ、豊かさと希少性、平等とヒエラルキーの四つの要素とつぎのようにかかわっている。
この図は、本論でもフレイズがふれているいまの世界を規定する不変の条件である、1,自動化の深化による労働力の過剰化(不要化)、2,エコロジー的危機、を前提として導出されたものである。この二つの条件がどのように具体的に展開するかによって、未来の姿は定まるというわけである。詳細は近刊の訳書(以文社より刊行予定)にゆだねたいが、以下の論文でフレイズが主に問題として扱うのは、エクスターミニズム(絶滅主義)の趨勢である。エクスターミニズムというこの耳慣れない用語は、もとを正せばイギリスの歴史学者E・P・トムスンに由来する。トムスンは、1980年代前半の冷戦の激化と核開発競争の激化とそれを駆動する論理に対し、この造語をあてがった。フレイズは、時代的文脈も政治的含意も異なるその造語をあらためてとりあげ、労働力の過剰化がそのまま「絶対的過剰人口」としてひたすら治安と排除の対象と化していくこの世界の傾向を示唆するために再利用している。今回のCOVID-19パンデミックは、この最悪の未来をくっきりと開示するものであるというのである。
その一方、これも本文にあるように、世界的にみれば、人類に降りかかったこの災厄を利潤の契機に転化しようとするいつもの「災害資本主義」に対し、ソーシャリストやアナキスト、民衆運動が、さまざまな要求や実践をすでにくり広げ、「災害資本主義」ならぬ「災害ソーシャリズム」の輪郭をぼんやりと浮上させながら、わたしたちの想像力と行動の地平を拡張しようとしている。かの「ウイルスの独白」にしたがうように、である。
「わたしのおかげで、みなさまは経済をとるか生きるかという分岐点に立つことができました。この選択はみなさまの実存を暗黙のうちに構成していたわけですが、どちらかをとるか決めるのはみなさま次第です。歴史的な賭けになるでしょう。支配者たちがみなさまに例外状態を命じるか、それともみなさまがみずからの例外状態を発明するか。白日のもとに明らかになった真実にこだわるか、それとも断頭台に首を捧げるか。わたしがさしあげたばかりの時間を使って、目下の崩壊を教訓にこれからの世界を構想するか、それとも崩壊が猖獗を極めることになるか。災害が終息するのは経済が終わるときです。経済こそが荒廃なのです」LUNDIMATIN「ウイルスの独白」(HAPAX訳)。
まさに、わたしたちはいま、この抗争の渦中にある。
2020年4月7日 酒井隆史
COVID-19パンデミックが猛威をふるうなか、
わが支配諸階級は、つぎのような結論に達しつつある。
すなわち、利益の損失か生命の損失かを選ぶとすれば、
生命の損失(死)を選ぶのだ、と
グローバル経済は、ある矛盾に囚われている——COVID-19パンデミックがその矛盾をもたらしたわけではないが、少なくともその矛盾を強化している。疫学や気候科学は、短期的にわたしたちが家から出ないよう求め、長期的には、広範な経済の領域で解体再編の必要があることをうったえている。しかし利益取得と終わりなき成長に依拠する資本主義的経済モデルが、この要請を受け入れることは不可能なのだ。
パンデミックのなかで変化してきたものは、この矛盾がより明確になってきたことである。連日、死者数が上昇するにつれ、隔離と社会的距離を取る必要な期間が終わっても、2020年の「日常」に回帰できるとはますますおもえなくなってきた。そのかわり、セントルイス連邦準備銀行総裁のような人びとは、数ヶ月以内に30パーセントの失業が米国を襲うであろうと警告している。この数字は、大恐慌をも超えている。
この亀裂のなかに飛び込んでいるのが左翼である。左翼はこの危機に、適切な規模のなかでなら、少なくとも対応の方向性を主導することはできる。いまこそ、いわば「災害ソーシャリズム(社会主義)」のときである。これが、ナオミ・クラインのいう「災害資本主義」──切迫した危機が根本的な構造的変化を推進するきっかけとされる──へのわれわれの対案である。
この課題はとりわけ切迫している。というのも、それがいま提起されているただひとつの根本的な解決だからではない。支配層──共和党が中心だがそれにかぎらない──のなかに、死の党と呼べるものが台頭しているからである。
拙著『四つの未来』で、エコロジー的危機と急速なテクノロジー的変化という時代的文脈を念頭におきながら、わたしは資本主義からの多様な脱出の道について思弁をめぐらせた。当時もいまもわたしは、資本主義がかつての改良のようなものによって救済できるかどうかはもはや重要な問題ではないと考えている。資本主義のあとになにがくるのか、もはやこれが問うに値する問題である。そしてこの問いへの答えは、政治によって──階級闘争によって──規定されている。
わたしの考えたひとつの「未来」は、「エクスターミニズム(絶滅主義)」である。資本主義の主要な歴史的矛盾のひとつを検討することが、その出発点であった。すなわち、一方で資本家たちはその労働を労働者階級に依存している。それがかれらの利潤の根本的な源泉だからである。しかし他方、資本家たちは労働者をおそれている。かれらは潜在的に危険であり強力である。なぜならかれらは、必要不可欠な存在だからであり、したがって経済をストップさせる能力をも有しているからである。
この危機のなかで、この[労働者たちの]力の復活を、わたしたちは目の当たりにしている。とりわけ、教育、食料の流通、そしてもちろん医療といった社会的再生産にかかわる中核部門において。しかしまた、労働者階級の大部分が資本の観点からは余分なものになり、資本蓄積の動力というよりも足かせとみなされるようなとき、なにが起きるのかを示唆する不吉な兆候もあらわれている。
『四つの未来』では、自動化が過剰人口としてプールされる労働者を増大させる可能性をもっていることを強調した。この見通しは、いまだ潜在している。だがCOVID-19パンデミックに関連したより切迫した問題としては、高齢で、病持ち、あるいは、要するに、非生産的で利潤に寄与しないとみなされた人びとが、膨大な数にのぼるということだ。
死の党にとって、パンデミックそれ自体が経済的に有益なものにみえはじめている。とともに、パンデミックと戦うために必要な対策が、病よりもなお悪いとみなされる可能性もある。資本蓄積の狭い観点からすれば、そうなってもまったくおかしくない。
死の党の2020年綱領を予示するものが、COVID-19の真の危険が広範囲に理解されるのとほぼ同時にあらわれはじめた。3月はじめに、CNBC[ダウ・ジョーンズとNBCが共同設立したニュース専門放送局]の金融担当パーソナリティのリック・サンテリ──反動的「ティーパーティ」の創始者としても有名である──は、放送でウイルスへの過剰反応に警告を発した。「おそらくだれもがそれにかかったほうがよい」のであって「そうすれば一ヶ月以内にことは収まるだろう」と言い放ったのである。アダム・コツコがいうように、サンテリは、長いあいだ富裕層に浸透していたサディズムを刺激してみせたのであり、不幸なことにそれは労働者の一部のなかにも支持者をえている。
サンテリの発言は、ショックと嫌悪感に迎えられた。だからといって、政府やメディアの上層部へのそうした感覚の蔓延を抑えられたわけではない。さもなくば、限定的なパンデミック対策をとることで「集団免疫」獲得しようというイギリス政府の当初の方針を理解することはできない。ボリス・ジョンソンの上級顧問であるドミニク・カミングスは「年金生活者が多少死ぬとしたら、そりゃ気の毒だがね」といったと伝えられている。
こうした考えは、大西洋の両側の死の党の日常感覚として、人気を獲得しつつあるようにおもわれる。トランプ大統領は、不吉にもつぎのようにツイートしている。われわれは「[仕事に戻りたがっている。感染という]問題よりも対処法のほうが悪くなってはならない」。こんなトランプの発言は、「経済のクラッシュ」を心配して「数週間のあいだに、感染のリスクの低い人間は仕事に戻す」よう提案している、ゴールドマンサックスの最高経営責任者ロイド・ブランクファインの感覚と共鳴している。
『ウォールストリートジャーナル』紙もおなじような論調である。『ニューヨークタイムズ』紙の報じるところでは、共和党は「金融市場が下落をつづけ、4月の失業が数百万人にのぼる可能性があるため、経済を再開する方法をみつけるようホワイトハウスと合意した」。
しかしながら、このような考えは共和党にかぎられたものではない。この週末、おなじ『ニューヨークタイムズ』紙は、パンデミックの抑制は経済を再生させることより重要度が低いと論じる、死の党のリベラル版といった感の二つの論説を掲載している(そのひとつはもちろん、いつもろくでもないことしかいわないトーマス・フリードマンである)。
フリードマンは、この領域の専門家と話をすることも、資本主義の現状への根本的な変化を考察してみることもなく、仲良しの学者をピックアップして、数週間以内に正常に復帰できるという持論を裏づけてみせる。「コロナウイルスに感染したら、さっさと回復して、仕事に戻ろう」というわけだ。イェール公衆衛生学校のグレッグ・ゴンサルベスは、怒りのツイートで応酬した。「社会的距離を取ることは多数のひとに[経済的な]損失を与えるであろう。だがそれとともに、多数の死をも防ぐはずだ……感染を悪化させるよりも、困窮した人びとの経済的被害を改善することをなぜ考えないのか?」。
わたしたちは、もちろん、なぜか知っている。「困窮した人びとの被害を改善すること」は、資本主義の現状に対するなんらかの疑義を招きよせ、わたしたちの社会にそれに対応するよう促してしまう。ロイド・ブランクファインやトーマス・フリードマンのような人間にとって、それは世界の終わりに等しいのだ。それゆえ、かれらにとって、死の党は、それがいかに不穏にみえようが、唯一の実行可能なアプローチなのである。
この戦略の残忍さは、それが手遅れになったとき、病院が満杯になり、医療システムも経済も双方ともに崩壊したとき、あきらかになるだろう。このとき、フリードマンからトランプにいたるまでの人間たちを、ばかげた解決策と一か八かの治癒法を売り歩いた責任からまぬかれさせようと、レトリックの戦略が発動されるだろう。死の党が自己責任の党であるのはこのためである。もちろん、そこで問われるのは、かれらの責任ではなく、われわれの責任である。権力の座にある人間たちが、責任を問われることはない。富裕なものたちは、下層のものたちの愚かさを、悲痛に嘆いてみせるであろう。あの軽薄な若者連中がマイアミ・ビーチでパーティをやりさえしなかったら、というわけだ。
この犠牲者を責める戦略の基本的枠組みはすでに作成ずみである。リーダーたちは、隔離不足を非難し合うようにわたしたちを仕向けている。そうして、人間をおろそかにしながら資本優先で危機管理にいそしんでことを責められるのを避けるのである。社会的距離をわたしたちがたがいに求めあうことが悪いとか必要ないというのではない———いま現在、わたしたちが生き延びるための数少ない手段のひとつがそれなのであるから。
しかし、ニューヨーク州知事のアンドリュー・クオモが家から出ないようニューヨークの人びとに呼びかけながら、同時に、パンデミックの最中にもメディケイド[低所得者むけの公的医療保険制度]を削減しようとしていることを見逃してはならない。あるいは米国公衆衛生局長官がつぎのように警告していることを忘れてはならない。「この状況を深刻に受け止めている人間がすくなすぎる」と。この状況をもっとも深刻に受け止めていない人間が、かれのホワイトハウスのボスなのだ。
ソーシャリスト(社会主義者)たちはつねに、人間のニーズこそ利潤よりも優先されるべきであると主張してきた。株式市場は経済ではない。働く人びとを困窮させ地球を破壊する経済を変革する必要がある、と。支配階級がその自陣営内部の違いを超えてこぞって、「利益の損失と生命の損失を比べるならば、われわれは生命の損失(死)を選ぶ」という結論にいたるとき(惜しむべき死とそうでない死を峻別しながら)、このメッセージはきわめて切迫したものとしてあらわれるであろう。
著者
ピーター・フレイズ(Peter Frase)
NY在住。ジャコバン・マガジン編集委員。ニューヨーク市立大学大学院センター社会学助教。
著書にFour Futures: Visions of the World After Capitalism, Verso, 2016(以文社より近刊).