断崖絶壁状況
ウクライナでの白人間戦争ははじまりにすぎない:カオスの地政学へようこそ
フランコ・ベラルディ(ビフォ)
北川眞也訳
2022年4月12日
「2020年の復活祭の夜、フランシスコは、空っぽの広場から神に向かってはっきりと告げた。今はあなたの裁きの時ではない。われわれによる裁きの時であると——大切なものが何で、消え去るべきものは何かを選ぶときである。必要なものとそうでないものとを識別するときだ。」(マルコ・ポリーティ『フランシスコ——ペスト、復活』*1)
内なる敵
戦争の論理とは恐怖である。
戦争の記号論においては、あらゆる恐怖の情報、あらゆるフェイクニュースが効果的である。それは憎悪と恐怖をつくりだすからである。米国がファルージャにリン弾を投下する場合、ロシア人がブチャで武器を持たない敵を殺害する場合には、どうして憤激を招くのだろうか? 戦争犯罪を話題にしているからだろうか? だが、戦争とはそれ自体が犯罪なのだ。戦争とは犯罪の自動連鎖なのである。
答えるべき質問とはこうである。この戦争に責任があるのは誰なのか? 誰がそれを望み、けしかけ、準備し、爆発させたのか?
プーチン率いるロシアが、ナチ–スターリン主義であることに疑念の余地はない。けれども、他の誰かが戦争を強く望み、さかんに煽っていたことを万人が目撃している。2月にEUが、セルゲイ・ラブロフ〔ロシアの外相〕からの要請を検討すべく国際会議を開催していたなら、戦争のマシーンはストップできたのかもしれない。それとは逆に、EUはもめごとを煽ることを選んだ。ロシアとの会談に参加するウクライナの代表者は、率直にこう告げていた。「驚いたよ。NATO〔北大西洋条約機構〕は戦争になっても介入はしないと、どうしてこうも早くに表明したのか? そうやってロシアのエスカレートを促したのだ」。
戦争に加わる人たちは、思考するということができない。神経–認知的理性からすれば、理解するのはかなり容易ではあるが、戦争を行なう人たちには、思考する時間がない。かれらはおのれの命を守らねばならない。命を狙ってくる人たちを殺害しなければならない。
したがって、最初にまず、内なる敵を黙らせねばならない。
内なる敵とは、人間の感受性、言うなれば、良心だ。フロイトは、第一次世界大戦の間に書かれた戦争神経症についてのテクストで、このことを論じている。内なる敵は、懐疑、ためらい、恐れ、逃亡のようなかたちで姿を現すと。内なる敵とは、思考することへの意志のことなのだ。
こんにちでは、メディア・政治システムのいっさいが、この内なる敵を叩きのめすことに邁進している。フェデリーコ・ランピーニは、プーチンのために働いているとして、『アッヴェニーレ』紙の編集長を非難している。ローマ法王の言葉は、イタリアのメディア・システムが一体となって検閲している。フランチェスコ・メルロは、この戦争についての態度を決めない人びとへのリンチを求めている。
われわれはすでに相当にパブリックな言説の軍事化プロセスを着実に歩んでおり、イタリアの政治およびジャーナリスト階級は、多数を占めるナショナリスト連中に盲従している。こうした状況下では、極右ジャーナリストの意見と、トロツキズムないしはロッタ・コンティヌア〔1970年代前半に活発な活動を展開したイタリアの議会外左翼の一集団〕出身の知識人の意見とを区別することが困難となっている。
メディア・システムは、ここ2年の間におぞましい変化を被った。パンデミックの間、メディア・システムは保健衛生上の目的から止むことなく動員された。救急車や緑色のエプロン、呼吸装置をわれわれに見せびらかし、あるときからは〔新型コロナウイルスワクチンの〕注射および注射器を二度にわたり見せびらかしてきた。これは1日24時間にわたってのことであり、不安を惹起し脅迫的でもある途切れなきフローのただなかでのことだった。このような保健衛生によるメディアの包囲は、メディアが決定的な変化を遂げる前兆であると予見する人もいた。われわれは今、恐ろしい光景、切断された身体、母と子どもの絶望的で痛ましい脱出劇を、1日24時間目にしている。そして1日24時間、コメンテーター、時事評論家、〔軍隊の〕将官たちのあふれかえるおしゃべり、戦争を焚き付け、内なる敵を沈黙させるおしゃべりを眼前にしている。
キーウで暮らしていたら、何をなすのか?
私も自問してきたのだ。もしキーウで暮らしていたなら、何をなすのか? この問いは、何日も私を悩ました。私の父は、ファシズムと闘うイタリアのレジスタンスに加わっていた。心のなかでつぶやいた。とすれば、ウクライナの人びとの抵抗を支援することが、私の義務ではないのか? ロシアの侵略が危険にさらす諸価値のため、私は戦闘に従事せねばならないのではないか?
その後、一兵卒だった父がパドヴァの兵舎から逃げ出さねばならなかった時点においては、反ファシズムの人ではなかったことを思い出した。父は疑問に思ったことがなかったのである。父にとってファシズムとは、イタリア人の大多数にとってそうであったように、当たり前の条件だったのだ。1943年9月8日〔イタリアが連合国に無条件降伏〕の後にイタリア軍が瓦解したとき、父は他の大勢の人たちと同様に逃げ出した。そしてボローニャの家族のもとへ向かったが、父の両親は爆撃を恐れて、都市部から避難していた。それで父は兄とともに、マルケ地方のほうへと逃げる決断をしたが、それがなぜかはわからない。父たちは、他所からの避難者集団と遭遇した。パルチザンと出会い、徒党を組んだ。おのれの命を守るために、父はパルチザンとなった。パルチザンと話をするなかで、父にはこう思われた。もっとも鍛錬され、もっとも寛大なのは、共産主義者たちであると。そして、共産主義者たちが過去への解決策、ならびに未来へのプロジェクトを有していたことを理解した。父はこうして共産主義者となった。
もし私がキーウに暮らしていて、自由世界(Mondo Libero)、民主主義(Democrazia)、西洋の諸価値(Valori dell’Occidente)——すべて大文字ではじまる言葉——を守らねばならないと教えられるようであれば、脱走するつもりだ。けれども、私の家、きょうだい——すべてが小文字の言葉——を守るための抵抗に加わろうとは決断するかもしれない。
それゆえ、ウクライナの抵抗に加わるのかどうか、ロシアの兵士に弾丸を撃ち込むかのどうかと自問したときは、いつもどう答えてよいのかわからない。私が確実に理解しているのは、自由世界がウクライナの人びとに抵抗を呼びかけるさいの大文字の理由づけが偽物だということだ。見世物を続けるよう駆り立てているヨーロッパ人によるレトリックは偽物なのである。
ナチズムとは屈辱の進化形である
シリア、アフガニスタン、イラク、リビア、イエメンでここ数十年の間そうであったように、ヨーロッパでも恐怖がすさまじい勢いで引き起こされている。けれども、こうした国々は、ヨーロッパから遠く離れた場所だったし、われわれとは異なった人びと、いや正確に言うなら、われわれがひどく嫌い、しかも劣っているとみなす人びとが住む場所だった。
ウラジーミル・プーチン——われわれの大統領、企業家、ジャーナリストたちが、ちやほやおだてていたときでも、自身の帝国を求める使命感とスターリン主義的手法を決して隠すことはなかった——がこの戦争を開始したのは、ロシアの人びとの大多数がここ30年の間被ってきた屈辱に対して反発を示してきたからである。1930年代にヴェルサイユ条約による屈辱にドイツ人たちが反発を示したのと同じように。
ナチズムとは、屈辱の進化系なのだ。屈辱に対する好戦的な救済の約束なのである。90年代以降にロシア人たちが被った屈辱の深さを知りたい人は、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『セカンドハンドの時代』*2 を読まねばならない。
けれども、自若たる習近平が言うように、「拍手は片方の手だけではできない」。プーチンの手だけで〔戦争を引き起こすには〕十分というわけではないのだ。もう一方の手とは、ジョー・バイデンの手である。バイデンの手が、ロシアの人びととウクライナの人びとを戦争へと駆り立てたのは、4つの成果を得るためだ。1つ目は、EUを政治的に粉砕すること。2つ目は、ノルドストリーム2〔ロシア産天然ガスのパイプライン〕の稼働実現を妨害すること。3つ目は、自国の選挙世論調査で支持率を上昇させること。最後、4つ目は、ロシアという敵を打ち破ることだ。
最初の2つの目的は完全に達成された。ノルドストリーム2のプロジェクトは、ドイツ政府によって停止されたため、今やヨーロッパは米国の市場でガスを調達しなければならない。米国市場の燃料はいくぶん高めでもある。ともかく、それはロシアからの燃料に取って代わるほど十分なものではまったくなかろう。
政治的な観点からみれば、EUはNATOの指令に従属し、民族=国民(nazione)——EUの創設者たちが考えていたこととはまさに真逆のものだ——としておのれのアイデンティティを構築するよう強いられてきた。
EUは、20世紀のナショナリズムへの強迫観念から脱するべく誕生した。けれども、2022年の最初の数ヶ月のうちに、NATOはEUを民族=国民へと改変してしまった。今や、ヨーロッパ民族=国民は、高慢ちきなあらゆる民族=国民と同様に、戦火の洗礼へと突入している。
残りの2つの成果について言えば、状況はより複雑となっている。というのも、米国人の55%がバイデンの外交政策を支持していないからだ(戦争中の大統領が過半数の支持を得られないのは初めてのことであり、ヴェトナム戦争の時代でもイラク戦争の時代でも起こったことがない)。世論調査によれば、来たるべき選挙でのかれの得票率は好ましいものではない。バイデンの支持率は36%から44%まで回復したとはいえ、これは十分なものではない。民主党は2022年11月の中間選挙でおそらくは負け、その先の大統領選挙では共和党が勝利することになるだろう(それが誰であるかは様子をみよう。だが、それがドナルド・トランプである可能性を否定はしない)。
バイデンが手にしたい最後の成果、すなわちロシアの敗北について言えば、事態はなおのこと複雑だ。ウクライナの人びとの粘り強い抵抗にもかかわらず、ロシアは目的としていたものを獲得する途中にある。ウクライナの軍事機構=装置の破壊と、ウクライナの南東部地域とクリミア半島の支配である。ロシア兵が幾千となく倒れ、ロシア軍の将軍もまた戦闘で死亡しているが、プーチンには微塵も重要ではない。犠牲とは、トルストイ、イサーク・バーベリ、アレクサンドル・ブロークを読んだことがある人なら知るように、ロシアのナショナリズムに宿る神秘主義の魂=精髄なのである。
以後、予想されるのは、この紛争がウクライナ領内では長期的に継続することであり、ロシアが経済的・社会的破局の局面へと入り込むことである。
ところで、反プーチンの強硬派戦略家たちは、6,000発の核弾頭を保有する国の軍事階級制度内における後継者争いが何を意味するか、きちんと考えてみたことがあるのだろうか?
人生って天国なんだから
複数の世論調査によれば、ロシアの人びとの83%が戦争を支持しているという。私はそうは思わない。モスクワから届く世論調査は信頼できるものではない。けれども、この侵略は過半数の合意は得ているのではないか。
そのうえ、ウルトラ・ナショナリストの思想へと傾いている若者がロシアでは少数とはいえ増えてきている。かれらにとって、ウクライナでの戦争は、ロシアの魂の自浄作用なのであり、さらに広大な冒険の前触れとなるものなのだ。「ウクライナよ、君に感謝したい。われわれに改めてロシア人であることを教えてくれたのだから」。イワン・オフロビスティンという名の愚か者は、叙情的な調子でこう告げている。
ロシア正教会の精神主義から派生する殉教の伝統には長い歴史がある。それはドストエフスキーを経て、ワシーリー・グロスマン、同じくアレクサンドル・ソルジェニーツィンにおいて再び姿を現しながら、20世紀を横断する。この神秘的な犠牲者意識は、『カラマーゾフの兄弟』において、ゾシマ長老の死の間際にある兄が発した言葉に要約されよう。「母さん、泣かないでよ。人生って天国なんだから、ぼくたちみんな天国にいるのにそれを知ろうとしないだけなんだよ。その気になれば、明日にでも世界中に天国が現れるんだから」*3 。
ドストエフスキーが語る天国とは、苦悩、無情、悲哀、痛苦、要するに十字架だ。正教会–ロシアのナショナリズムは、十字架に貼り付けられたキリストとの類似の証として苦悩を愛し、具体的な女性と男性を憎むのと同じくらいに、人民=民族(popolo)を愛する。「人間とはなんて不愉快なものか」。ラスコーリニコフ〔小説『罪と罰』の主人公〕は、まさにその愚かさゆえになされねばならない愚かな殺人を犯すに先立ちこう言った。
ロシアの精神錯乱に、米国の無知が対峙している。それは穏やかな出会いなどではない。米国人(無論、私は米国で政治・メディア権力を保有する階級のことを述べている)が、後進性と劣等性——搾取したり、服従させたり、矯正したりすべき対象として——を見出す以外のやり方で、文化的差異を理解できたことは一度もない。しかし、ロシアの文化的差異は、自らを構成する混合物——救済をもたらす普遍主義と、被ったり科されたりする苦難への崇拝との混合——のただなかで縮減されずに残存し続けているのである。
ロシアの狂気とアメリカの無知が、ヨーロッパを断崖絶壁へと押しやった。この動きにブレーキをかけることは難しいように思われる。
自由世界の指導国
自由世界(大文字ではじまることを忘れずに)の指導国では、警察が一日に3人、きまって有色の人間を定期的に殺害している。2020年に、ブラック・ライブズ・マターの反乱後、黒人と左派からの票の獲得が問題となったとき、米国の民主党は警察への予算を削減し、社会生活の状況を改善すべく多額の支出を行なうと請け合った。当然、この約束——学生の借金が帳消しにならなかったことなど——は守られなかった。何より、警察予算はまったく削減されなかった。それどころか、増大したのである。
メキシコとの国境では、移民の拒否がドナルド・トランプの時代(どのみちすぐに戻ってくることだろう)を思い起こさせる水準にまで達している。
何かしらの理由で、バイデンへの支持は、最低水準にまで落ち込んだ。カブールでの2021年8月の後、バイデンは、たとえ世界でもっとも蹂躙された国との戦争に負けたとしても、ロシアとの戦争では勝利できることを世界に見せつけねばならなかった。だから、バイデンはセルゲイ・ラブロフから繰り返される要求を考慮することはできなかった。ロシアは、自国の安全保障、国境、それからNATOがここ25年の間追求してきた拡大について議論したいと、来る日も来る日も繰り返していたのである。
自らの堪え難い不能性に負けまいとする老いた人物がたびたび行なうように、バイデンは、ロシアに断固たる態度で立ち向かおうと心に決め、プーチンとの真昼の決闘を準備した。しかし、拳銃を取り出す段となれば、クレムリンのスターリン–ツァーリ主義者である罪人の前に取り残されたのは、ウクライナの人びとだけだった。
ウクライナの抵抗の後援者であるヨーロッパ–アメリカは、武器を提供し、メディア上での支援を行なってきた。けれども、死んでいくのはウクライナの人びとであり、長きにわたる抑圧の歴史が、かれらをウルトラ・ナショナリストの立場へと至らしめたのは無理もないことである。
白人間の戦争は新たなカオスの地政学へと突入する
老年期認知症の精神病理学——(ロシア–ヨーロッパ–米国の)白色人種の精神崩壊において極めて重要な役割を果たしている——を脇におけば、いかなる戦略的動機がこの戦争にはあるのだろうか? バイデンは断定する。自由世界、つまり、かれが改めてそのリーダーたろうと決断した西洋を防衛する必要があるのだと。植民地化や暴力、組織的強奪、人種主義の5世紀を経た後に、西洋を防衛するというのは、もはや並大抵のことではない。すぐにわかるように、白人間戦争へと突入するロシア–米国の選択は、白人の衰退を促し、凋落へと転じさせてしまうことだろう。
2月24日にはじまったのは、白人間の戦争である。白色人種同士の戦いが繰り広げられている。しかしながら、この戦争から浮かび上がる——すでに浮かび上がっている——ものはと言えば、新しいポスト・グローバルの地政学にほかならない。
1989年に自由世界が社会主義陣営に勝利し、世界の私有化(privatizzazione)および新自由主義による金融支配への道を開いたとき、イデオローグたちはこの新たな秩序が覆せないもの、恒久的なものであるかどうか、それゆえに、いっさいの紛争・反乱・戦争とともに、歴史が終わったのかどうかを自問していた。フランシス・フクヤマは、少しばかりせっかちにこのように公言したし、自由民主主義者たちは、リベラル・デモクラシーと市場とのペアは無敵であるとうぬぼれていた。
市場という鉄則と対になった民主主義という言葉は、意味を欠いていることがすぐに明らかとなった。4年ごと、5年ごとに、自由世界の市民たちは、自分たちの代表者を選ぶことができた。けれども、代表者らができたのは、市場の法則を適用することだけだった。その自動作用の論理に、政治的意志がダメージを与えることはできなかった。
こんな欺瞞が続くことはなかった。2016年以後、民主主義はジョークへと成り下がってしまった。
フクヤマよりもやや愚かな人物が、文明間対立の時代がはじまることを説明するべく、一冊の本を書いていた。サミュエル・ハンチントンは、『文明の衝突〔原題:文明の衝突と世界秩序の再形成〕』*4 のなかで、このような衝突をめぐる地政学のあらましを描出した。ハンチントンによるなら、今後は、一定の数(おそらくは、およそ7つほど)の文明圏同士が対立することになるという。
ハンチントンの理論は、(民族的・宗教的・文化的)アイデンティティを、対立する諸勢力間の分割ラインとみなしており、イスラーム諸国に対する米国の戦争、さらには西洋と中華圏との来たるべき衝突を予見するものであった。ハンチントンは、フクヤマのように劇的に間違っていたというわけではない。けれども、かれの理論はずっと複雑であるはずのプロセスを矮小化している。
リベラル・デモクラシーの勝利は、社会的領域の全体へと及ぶ私有化、そして労働活動の全般的な不安定化〔プレカリゼーション〕と同時に生じた。この影響で、「社会的な文明」、つまり政治的規制=調整、特には教育——ジャングルの自然の掟を中断ならしめる——によって大部分の利害が守られた文明の一形態が暴力的に瓦解させられたのだった。
資本主義による全体主義が、他の多くのものとともに、公立学校を破壊した。20世紀の後半に、倫理的かつ連帯的意味において人間の生活を動機づけ、ヒューマニズムと平等主義を促進してきた教育のプロセスは、人間性を失わせるそれ——隅々まで広がるとともに、とめどなく生み出されていて、そこから逃れようのない広告、相互に結びつく人間の認知活動を神経レヴェルで支配するグローバル大企業に牛耳られたデジタル化——に取って代わられたのだ。
こうして、これまでにない驚倒するほどの、大勢順応効果が生み出されたのだった。無知と広告への盲信があらゆる政治的ルール、そして利潤の命令に合致しないあらゆる文化形態を放逐してきたのだ。
デジタル技術が可能とした経済の完全なる金融化は、具体的なものに対する抽象的なものの決定的な支配を実現した。
金融資本主義は、オルタナティブなき自動作用のシステムのようにみえ、不安定〔プレカリアス〕労働は連帯できないことが明らかとなり、未来はオートメーション化された現在のただなかに完全に閉じ込められたと思われた。
この意味で言えば、フクヤマは正しかった。歴史は終わった。精神的困窮が、荒れ狂う山火事のように広がり、主観性は大衆に広がる精神薬理学的専制と横溢するデジタル化への支持とに征服されてきた。
それから、破局が訪れた。2019年秋に世界規模での痙攣(香港、サンチアゴ、キト、テヘラン……地球規模での爆発(estallido))が生じた後、ウイルスがやってきたのだ。
ウイルスは、現在、世界の舞台を混乱させている精神崩壊の条件をつくりだした。
カオスは、世界の多くの地域で商品の循環と労働の継続を遮断した。しかし今度は、軍事的脅威が生産–流通–消費の具体的な連なりを打ち砕き、原子爆弾の脅威がうつ状態の想像領域〔イマジナリー〕をかき乱している。悪夢から目覚めたところで、まるでその悪夢が現実であることに気づくよりほかにはないように。
復讐
白人間の戦争は、世界が今までになかったラインにそって分割されるという逆説をもたらしている。こうしたラインは、イデオロギーや地政学とはあまり関係がない。むしろそれは、植民地化と人種による搾取の歴史とに関係がある。
国連でロシアによる侵攻への非難決議案が提出されたとき、世界でもっとも人口の多い国々——インド、パキスタン、インドネシア、南アフリカ——が中国とならんで棄権した。植民地主義の分断線にそった地政学的シナリオが初めて姿を現している。過去の白人帝国同士が衝突したり、同盟を組んだりする一方で、非白人の世界が地平線上に現れているのである。
ロシアとはワイルドカード、トランプのジョーカーのような存在なのであり、白人世界を解体させるピッキングツールとしての役割を果たす〔白人世界の〕内的要素なのだ。
それとは別の狂気じみた要素をあげるとすれば、パキスタンだろう。パキスタンは、米国の圧力と今や支配的である中国の影響力との間で板挟みにある。イムラン・カーン首相は、極めて厳しい調子で米国の干渉を告発したが、その後、ナワーズ・シャリーフによって政府からうまく追い払われたのだった。ただし、パキスタンでの抗争ははじまったばかりであり、悪化していくのは時間の問題かもしれない。
他にも狂気じみた要素は辺りに転がっており、わざわざ口に出すまでもない。さらに他の事柄もまた狂気じみたものとなっていくだろう。
ウクライナでの白人間戦争は、世界の南北間の亀裂——われわれは今その最初の動きを目撃している——を深める触媒なのだ。
時折、毛沢東のことを思い起こす。私は毛沢東を崇拝したことは一度もないが、かれは興味深いことを言っていた。思い出すのは、まもなく周辺部が中心部を包囲することになる、とかれが1960年代に理論化していたことだ。
この理論は、毛沢東が信頼した側近の林彪(その数年後の1971年に飛行中に消し去られた *5 )によって特に支持されていたが、「偉大なる舵取り」〔毛沢東のこと〕が有した展望は、工業諸国の労働者と、周辺諸国のプロレタリアないしは農民との戦略的同盟として理解されなければならない。共産主義インターナショナルのスローガン「万国のプロレタリアよ、団結せよ」は、毛沢東主義者によって「プロレタリアと被抑圧人民よ、団結せよ!」と新たに定式化されたのである。
当時、植民地主義は後退していると思われていた。数々の解放運動が帝国主義者たちを撃退していたのだ。1975年にはxヴェトナムで米国が敗北したが、それは解放プロセスの絶頂の瞬間であるように思われた。
けれども、事態はわれわれが期待したようには進まなかった。敗北したはずの植民地主義は、経済的支配・採掘–採取主義・文化的植民地主義のような新たなかたちで蘇ったのだ。
今から振り返るなら、「農村から都市を包囲せよ」という公式は、産業労働者と、植民地主義によって窮乏させられた人民との同盟に対する代替戦略だったとみなすことができる。毛沢東はこう述べていた。万事がうまくいけば、北の労働者と南の農民の間に同盟が形成されることだろう。何かしらうまくいかずに、北の労働者が敗北するような場合は、帝国主義的資本主義を圧迫するのは、被抑圧人民になるだろう、と。
この戯画的な単純化を許してほしい。だが、毛沢東は冗談を言っていたわけではない。「長征」とはまさにこれを体現するものだった。農村が都市を包囲することで、農民が多数を占める国で権力を奪取したのである。
中国の人びとは、19世紀の中頃に、台頭しつつあった西洋の強国が天朝に与えた屈辱の記憶を保持し続けている。中国は150年にわたり周辺化させられたのだった。だが21世紀になった今、植民地主義によって窮乏させられ、2世紀にわたって搾取と屈辱にさらされてきた諸人民が、数多のやり方で白人世界の中心部を包囲してきたのだ——移民の移動、ナショナリズム化する部族主義、さらには主要通貨としてグローバルな機能を担ってきたドルの役割を終わらせようとする趨勢。
「好ましい」戦略的視角は失敗に終わった。労働者の共産主義は、新自由主義に基づくグローバル資本主義に敗北させられたからである。だから、二つ目の、忌まわしい視角しか残っていない——復興するナショナリズム、復讐だ。
今のところ、ロシアと「自由世界」の間の紛争により、白人世界の内部で復讐は行なわれている。しかし続いて、過去数世紀のあいだ従属を被ってきたいくらかの強国が攻撃的な仕方で再登場することになるだろう。
西洋は、この二重の攻撃——それに加えて、中東で、またヨーロッパのバンリューでも再び爆発しそうなイスラーム主義者の消え去ることのない敵愾心がある——を耐え抜くことができるのだろうか?
過去と現在の植民地主義への報復が惑星規模での大量殺戮へと帰着する事態を回避できたのは、労働者階級のインターナショナリズムのみだっただろう。工業化された西洋の労働者と、植民地支配を受ける被抑圧人民のプロレタリアは、同じ共産主義のプログラムのなかで、互いを認め合っていたのだ。けれども、共産主義は敗北した。われわれは今、万人に対する万人の戦争に立ち向かわねばならない。
締めくくりに
このように断崖絶壁的=危機的状況が全般化している。われわれはそこにおいて、ヨーロッパの断崖絶壁的=危機的状況がどう進むのかを想像しようとせねばならない。昨日までは考えられないようなやり方で経済が混乱し、社会が窮乏するときに、社会崩壊が進行するなら、それはどのようなかたちとなるのだろうか? 起こりうるヨーロッパの反乱を、誰が主導するのだろうか?
今のところ、有力な勢力がナショナリスト的で精神病的であるのは確実だと思われる。シャーンドル・フェレンツィの予言が頭に浮かんでくる。フェレンツィは、1918年の著作で、集団レヴェルでの精神病の治療可能性をきっぱりと否定していたのだ。
これこそが、こんにちの挑戦なのである——個人の限界を超え、集団心理の領域をも急襲する精神病をいかにして治療するのか?
こうした問いに、目下のところ、理路整然としたやり方で答えることはできない。それでも、このような問いに至急で取り組まねばならない。なぜなら、社会的主観性が、うつ病の流行と好戦的な集団的精神病の間で揺れ動いているからである。この病状への効果的な治療法のみが、終末のホロコーストを回避することができよう。
この効果的な治療法を見出すことが、現在という時代に応じた思想の務めなのである。
著者紹介
フランコ・ベラルディ(ビフォ)/Franco “Bifo”Berardi
1949年、イタリア・ボローニャ生まれ。思想家、メディア・アクティビスト。ビフォの愛称で知られる。70年代のイタリア・アウトノミア運動で活躍。雑誌『ア/トラヴェルソ(A/traverso)』を創刊し、自由ラジオ『ラジオ・アリーチェ』を開局。77年の政治的弾圧によりフランスへ逃れ、その後ニューヨークにわたりサイバーパンクの潮流にかかわる。85年にイタリアに帰国後、インターネットをはじめとする新たなメディアを使ったネットワークの構築にとりくみ、メディア・アクティビストとして活動・思想の領域を広げていく。
日本語訳に『プレカリアートの詩』(河出書房新社)、『NO FUTURE』(洛北出版)、『大量殺人の“ダークヒーロー”』(作品社)、『フューチャビリティー』(法政大学出版局) がある。
訳者紹介
北川眞也 (Shinya KITAGAWA)
1979年生まれ。政治地理学、境界研究。博士(地理学)。三重大学人文学部准教授。主な著書に『惑星都市理論』(「惑星都市化、インフラストラクチャー、ロジスティクスをめぐる11の地理的断章——逸脱と抗争に横切られる「まだら状」の大地」、平田周+仙波希望編、以文社、2021)。主な論文に「地図学的理性を超える地球の潜勢力——地政学を根源的に問題化するために」(『現代思想』第45巻18号、青土社、2017)、「ロジスティクスによる空間の生産——インフラストラクチャー、労働、対抗ロジスティクス」(原口剛との共著、訳書にフランコ・ベラルディ(ビフォ)『NO FUTURE――イタリア・アウトノミア運動史』(廣瀬純との共訳、洛北出版、2010)。
- Marco Politi, Francesco. la peste, la rinascita, Bari-Roma: Laterza, 2020. ↩︎
- スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(松本妙子訳)『セカンドハンドの時代——「赤い国」を生きた人びと』岩波書店、2016年。 ↩︎
- ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『カラマーゾフの兄弟2』光文社、2006年、365頁(一部訳文変更)。 ↩︎
- サミュエル・ハンチントン(鈴木主税訳)『文明の衝突』集英社、1998年。 ↩︎
- 中国共産党の見解では、林彪の死の原因は、毛沢東暗殺計画の失敗後、亡命の途中で起こったモンゴルでの航空機の墜落によるとされている。 ↩︎