マルチスピーシーズ・インフラストラクチャー
タイのチャオプラヤデルタにおけるインフラストラクチャーの反転とインボリューション的絡まり合い
森田敦郎
田代周平 訳
はじめに
本記事は、Ethnos: Journal of Anthropology(January 2016, 82(4):1-20)に掲載されたAtsuro Morita(森田敦郎),“Multispecies Infrastructure: Infrastructural Inversion and Involutionary Entanglements in the Chao Phraya Delta, Thailand.”(DOI:10.1080/00141844.2015.1119175)全文の日本語訳に基づく。翻訳に際しては田代周平氏が担当し、適宜、著者本人がコメント等、修正を施したものである。本論文の日本語訳転載に関して、Ethnos誌の発刊元であるTaylor & Francis Ltd(www.tandfonline.com)より許諾をいただいた。記して感謝を申し上げたい。(以文社編集部)
要旨
本論文は、タイのチャオプラヤデルタにおける水管理インフラストラクチャーの形成において浮稲が果たしてきた中心的な役割を明らかにすることを目的としている。インフラストラクチャーは、日常的な活動の背景にあり、それを利用する主体からは見過ごされがちである。しかしインフラストラクチャーは、故障や崩壊の瞬間に、普段は隠されている人間と非人間の繋がりを可視化することがある。近年、チャオプラヤデルタ周辺では、浮稲のインフラストラクチャーとしての役割が多くの主体の関心事になっている。本論文では、デルタ地帯における水管理インフラストラクチャーと農民、稲の間の複数種の関係を考察することで、インフラストラクチャーが反転する瞬間を追跡し、マルチスピーシーズ・インフラストラクチャーの一部である稲がインボリューションを起こす過程を明らかにする。このようなインボリューションに注目することは、インフラストラクチャーと自然の関係性を再考することにも繋がる。
水が来る前に種を撒くと、水の上昇とともに芽が伸び、ついには1丈(3メートル)にも達する稲が、水の上昇に追随してできるのである。このように稲は簡単に育つので、価格は他国よりはるかに安く、飢饉の心配はほとんどない。(林・林 1958: 1279; Ishii 1978a 27頁より引用)
はじめに
2011年の大洪水で明らかになったように、チャオプラヤデルタは、陸と海の間に位置する境界的な場所である(Ishii 1978bも参照)。河口から100キロメートル上流のアユタヤでさえも標高が2メートルしかないため、この古都に至るまで潮汐が河川流と交錯する。さらに、河川と潮汐の相互作用と雨季の大雨により、洪水は一年中絶えることがない(Takaya 1987)。かつての東南アジア諸王国にとって、このような湿地帯のデルタは、内陸と海上の水路が交差する場所に位置するため、まさに貿易港の建設に最適な場所であった。チャオプラヤデルタのアユタヤやバンコクは、中国や日本、中東、そしてヨーロッパへの貴重な林産物輸出の中心地だったのである。
前近代以来、アジア域内の貿易網を通じてタイを訪れた多くの外国人は、チャオプラヤデルタの深い氾濫水の中で育つ稲を目の当たりにし、感銘を受けたという。本稿では、デルタの水陸またがった境界的インフラストラクチャーの形成において、「浮稲」――現在はそう呼ばれている――が果たした中心的役割に焦点を当てる。その役割がほとんど気づかれていない理由は、ヒュー・ラッフルズが昆虫に関して示した、「私たちの周りには他の世界があり、それを知らずに通り過ぎてしまうことがあまりにも多い」(Raffles 2010: 12)という主張にも伺える。人と稲、その他のものが生み出す複数種的諸関係に注意を払うことで、インフラストラクチャーと自然の関係性を再考することができる。
通常の場合、多くの人は、他種との関わり合いに特別な注意を払うことをしない。このため、最近になって出現したマルチスピーシーズ民族誌(Kirksey & Helmreich 2010[カークセイ、ヘルムライヒ 2017]を参照)では、動物や植物と関わる科学者を取り上げる方法が採用されることが多い。この戦略は、科学の実験システムが人間と非人間との諸関係を引き出すための最も強力なツールの一つであるという観察を前提としている(Haraway 2008[ハラウェイ 2013]; Helmreich 2009; Myers 2015)。
同様に、本論文は、インフラストラクチャーが複数種の関係を明確化する能力に焦点を当てている。インフラストラクチャーは、組織や制度から機械や人工物まで、さまざまな実体を結びつけており、従来は、さまざまな活動が「その上で」行われる技術システムであると見なされてきた。そのような活動の背景で作動しているため、依存する主体が日常的に注目することはほとんどない(Star 1999)。しかし、科学の実験システムのように、インフラストラクチャーは、時に人間と非人間との間の普段は見えない繋がりを露わにする(Jensen & Morita 2016)。
例えば、故障や事故といった異常事態は、インフラストラクチャーの働きを観察者に強く意識させる(Ishii 2016参照)。サイエンス・スタディーズの学者ジェフリー・C・ボウカーは、そのような状況を前景化する分析的な戦略を「インフラストラクチャーの反転」(Bowker 1994)と呼んでいる。しかしインフラストラクチャーの反転は、研究者が用いる戦略にとどまらない。故障の瞬間には、多くの人々がインフラストラクチャーの予測不可能な挙動から直接影響を受ける。そのような状況下では、彼らもまた、その影響について探求を始めるであろう(Star 1999)。さらに、旅行者や外国人が見慣れないインフラストラクチャーに直面したときに円滑に対処するのは難しく、その存在が一層可視化されることもある(Edwards 2003)。例えば、チャオプラヤデルタでは、旅行者と科学者、国家公務員が運河ネットワークと隣接する浮稲水田を含むインフラストラクチャーの反転を繰り返し行ってきた。その際明らかになったことは、浮稲がインフラストラクチャーを支える中心的な役割を担ってきたということである。
インフラストラクチャーの反転を分析戦略として使用するには、システムに固有の技術的諸関係だけでなく、これらの「構成要素」とその「環境」との諸関係も整理する必要がある(Jensen 2015; Ishii 2016; Chalfin 2016; Harvey 2016)。こうした諸関係は、パナマ運河とその周辺の森林との間の境界の揺れ動きを考察するアシュリー・カース(Carse 2012)の分析の中核を成している。カースの事例においては、運河はその流域からの配水に依存しており、この供給に対する懸念の高まりから、米国の専門家が流域の森林を運河のインフラストラクチャーの一部と見なすようになった。
チャオプラヤデルタでも、インフラストラクチャーと環境の境界はますます曖昧になってきている。しかしパナマ運河とは異なり、ここではインフラストラクチャーが「自然」を包含するのではなく、インフラストラクチャー内に複数種的諸関係が共存していることが明らかになった。このマルチスピーシーズ・インフラストラクチャーの中核となるのは、農民と稲との間のインボリューション的関係とでも言うべきものである。フスタックとマイヤーズ(Hustak and Myers 2012: 96)の言葉を借りれば、これは「異なる種を結びつけて新しい生命様式を生み出す」情動的な諸関係である。 本論文では、インフラストラクチャーの反転の瞬間に着目し、マルチスピーシーズ・インフラストラクチャーの様々な側面に光を当てる。これらの瞬間は、旅する人々、テクノロジー、農民、国家機関、そして稲が出会う結節点で見られる(Morita 2013参照)。これらの異なる行為者は、物質的状況や概念的諸関係に応じ、全く異なる関心事としてマルチスピーシーズ・インフラストラクチャーに関与してきた。またその過程で、異なる境界線を想像し、強要しようと働きかけてきた。インフラストラクチャーがゼロから再構築されることはほぼないため、過去の修正と再概念化の試みは、現在の構図の一部として残っている(Star 1999)。この意味で、こうした反転は、単にインフラストラクチャーを知ろうとする試みというよりも、存在論的な実験を引き出すものと捉える必要がある。インフラストラクチャーの実験は、農民、稲、運河、水管理実践の関係性を構成し直す。長い年月に渡って、人間と浮稲の物質的・概念的な空間を創造し、再創造してきたのである。
旅人が目にした珍奇な植物
2014年9月、私は友人で研究助手のチット、熟練農家のサングアンとともに、浮稲の田んぼにいた。場所は、アユタヤ県バーンバーン郡に残る浮稲の水田の一つで、チットもサングアンもデルタ地帯全域の中で最も洪水の多いこの地域に住んでいる。まだ洪水は始まっておらず、田んぼには浅い水しか溜まっていなかった。 私には、水田というより湿地の草原に見えた。稲株の高さは不揃いで、この時期にすでに倒伏しているものもある。また、稲の間には雑草がびっしりと生えている。浮稲特有の農法で、荒い耕起(thai da)と種まき(wan met)以外は基本的に何もしないため、このような無秩序な姿になるのである。雑草もなく、高さも揃った通常の稲が植えられている隣の田んぼとは対照的である。笑顔で田んぼに目を向けながら、サングアンは、洪水によって雑草は浸水するため、稲だけが生き残ることができるのだと説明した(写真1)。
東南アジアのデルタ地帯を訪れた初期の旅人たちは、浮稲の奇妙さについて、私と同じような印象を持ったかもしれない。本稿の冒頭のエピグラムは、17世紀にシャム船の中国人船長が日本の港務官にシャムの地理や産業について書き送った『唐船風説書』から引用したものである。14世紀以降、シャム、中国、日本、その他の東南アジア諸国は緊密な貿易関係を築いており、そのアジア間貿易ネットワークの中でも、シャムや近隣諸国における浮稲の特異性は、しばしば旅人たちの好奇心を刺激し、書き残されている(Ishii 1978a)。
この共通性と対照的に、浮稲耕作に関する記述を現地の資料から見つけるのは極めて難しい。アユタヤ王朝やバンコク王朝の年代記は、戦争や宮廷での出来事、王の偉業についての記述は豊富だが、農業や一般の村生活のありふれた側面について詳しく説明することはほぼない(Terwiel 1989)。これらの記録を残したタイの上流階級にとって、農業や浮稲は、どうやら生活の背景として当たり前のものであり、特に注目する理由もない側面であった。見慣れない景観や奇妙な生物種として認識するためには、旅人の好奇心に満ちた視線が必要だったのである。
しかし、この視線は中立とは程遠いものであった。旅人は、地元の人々が普段見過ごしている細部に気づくかもしれないが、そのような細部の解釈は、彼らが故郷で知っているインフラストラクチャーとの暗黙の比較によって常に組み立てられていた(Mohacsi & Morita 2013; Morita 2013)。旅行記の中でも、浮稲の栽培の容易さが強調され、比較の作業が行われているのが分かる。前述の中国人船長や他の資料でも、労せずして稲が育つことが指摘されている(Zhou 1992)。タイ北部や日本、中国などアジアの山間盆地での稲作は、通常、灌漑水田に稲を移植していたため、これとは対照的であった(Ishii 1978b; Bray 1986; O’Connor 1996)。これらの灌漑システムの維持管理は、非常に労働集約的であり、水田を維持するには細心の注意が必要であった。そのため、旅人にとって、東南アジアのデルタ地帯での稲作が治水インフラストラクチャーを一切持たず、最低限の農作業で済んでいたことは大きな驚きであったのである(Catling 1992; Tanabe 1994)。
このように、これらの米作りの形態は、視覚的に非常に対照的である。灌漑による稲作の苦労を知る中国人や日本人にとって、浮稲という緩やかかつ無秩序な稲作は強い印象を残したに違いない。
このような状況を考えると、浮稲のインフラストラクチャーとしての役割に最初に注目した学者が日本人であったことは、驚くには当たらないかもしれない。1960年代、デルタの水陸両性とその巨大なスケールは、日本の初期の東南アジア地域専門家を圧倒し、特に浮稲の栽培については、大規模な調査が行われるようになっていった。
プロジェクトリーダーであった石井米雄は、灌漑稲作を行っていた北部山間盆地から移住してきたとされるタイ人は、浮稲の生物学的特徴を利用することでデルタの水環境に適応してきたと主張した。浮稲は灌漑インフラストラクチャーと機能的に同等であり、どちらも自然環境を生産的に利用することに寄与すると考えたのである。さらに石井は、浮稲の利用を環境に対する「農学的適応」と呼び、灌漑ダムや側溝の建設に用いられる工学的適応様式と対比している(Ishii 1978b)。このように、石井は浮稲が灌漑用水路のインフラストラクチャーと類似していると考えた。灌漑インフラストラクチャーが物理的に水路を囲うことで水の流れを編成するのに対し、浮稲は生物学的な手段を通じて荒れ狂う水に対処するのである。 石井のプロジェクトで興味深かったのは、浮稲と水インフラストラクチャーとの類似性だけではなかった。浮稲の栽培がデルタの大規模な運河網と連動していることを人類学者が発見したのである(Ishii 1978b、Takaya 1987)。この運河網と「水上」生活様式は、以前の旅行者に感銘を与えたものそのものである。1820年代にデルタを訪れたジョージ・フィンレイソンの旅行記に、初期の典型的な記述がある。
シャム人はその性質上、水上生活者であると言えるかもしれない。(中略)彼らの多くは、土手の近くに固定された竹のいかだに浮かんでいる。そうでない家屋は、泥に打ち込まれた柱の上に建てられ、堤防より高くなっている。これは日周期の潮の流れや、毎年起こる洪水によって、このような予防措置が必要となるからである。(中略)浮いているかどうかにかかわらず、どの家にも、家族が使うための一般に非常に小さなボートが取り付けられている。(Finlayson 1826: 212)
1960年代までは、旅行者も同じような印象を抱くことが多かった。現在でも、バンコクや地方都市の古い地区には、運河や堤防、高床式住居など、フィンレイソンが描いた水辺の町並みが残されている。
洪水の多いデルタ地帯では、人が住める場所は川や運河に沿った自然の堤防に限られていた。これらの場所はまた、乾季に水を確保する上でも欠かせない場所であった。非常に平坦な地形のため、乾季にはデルタの隅々から水が蒸発し、飲料水は川や運河からしか得られなかった(Takaya 1987)。このような厳しい水文条件のため、19世紀のデルタの大部分は、ほぼ人が住んでいなかった(Homan van der Heide 1903)。しかし、輸出米の需要の高まりから、19世紀末から徐々に人里がデルタ地帯全体で拡大する。この大規模な変貌の中心的役割を果たしたのが、民間投資家や国家による運河掘削である(Tanabe 1978)。運河の掘削は、内陸部へアクセスするための水路を作っただけでなく、運河の底から掘り出された土が堤防として利用され、その上に移民農民が村を作ることができたため、高台の居住を可能にしたのである。
堤防の上に住む農民は、後背地にある窪地で浮稲を栽培していた。デルタの洪水は大きいので、これらの田んぼの水深は洪水のピーク時には2〜4メートルになる。そのため、山間部の盆地では、一般的な品種の稲を使うことができなかったのである。この水郷地帯を生産性の高い水田にするための唯一の手段が浮稲であった(Takaya 1987; Tanabe 1994)。 19世紀末から20世紀初頭にかけてデルタ地帯全域に拡大した水上インフラストラクチャーは、その後のインフラストラクチャー整備に長い影を落としている。その後の高速道路や西洋建築が、運河網や浮稲耕作を完全に取って代わることはなかった。20世紀末以降の大洪水の増加と相まって、インフラストラクチャー構想が再び変化し始めた今、水陸またがったインフラストラクチャーにおける浮稲の重要性は、ますます多くの主体の目に触れるようになっている。
水インフラストラクチャーの一部としての浮稲
石井らがデルタの調査を始めた頃、デルタはすでに変化の過程にあった。1957年、世界銀行の巨額の資金援助により、チャオプラヤ川を横断する巨大なダム・チャオプラヤダムが建設されたのである(Takaya 1987)。このダムは、デルタ全域に水を供給する灌漑システムの中心的な構成要素であり、現在もその役割を担っている。チャオプラヤダムの完成は、デルタの環境を劇的に変容させた。灌漑システムは、その主な目的のほかに、排水ネットワークとしても機能し、道路や西洋式の建物を建てることができる乾燥した土地を作ることに大きく寄与した。しかし、このようなインフラストラクチャーの近代化の結果、タイ、特にバンコクでは、洪水の問題が発生するようになった。近代的な陸上インフラストラクチャーは、従来の水陸またがったインフラストラクチャーよりも洪水に対してはるかに脆弱であることが判明したのである(森田 近刊予定)。
洪水問題の顕在化は、新たなインフラストラクチャーの反転を引き起こした。水量の規模を考慮すると、バンコクを保護するためには、500キロメートル離れたダムの運用も含めて、流域全体を包含する大規模な水管理が必要となったのである(Japan International Cooperation Agency 1999)。上流域の水量把握は、王立灌漑局が主要河川に流量計を設置していたため、比較的容易であった。しかし、デルタ地帯の水流を把握することははるかに複雑であった。デルタでは、数多くの支流や運河、灌漑用水路などを経由して水が流れている。水は上流から下流へ流れるだけでなく、横方向にも、時には海潮の影響で逆方向にも流れる。
こうした複雑な要因が、デルタの水流を予測不能にしている。例えば、灌漑システムの完成後、灌漑網からの排水は、チットやサングアンの住むバーンバーン郡を含む窪地に予想外に集中するようになった。そのため、これらの地域では洪水が悪化している(Takaya 1987)。こうした問題に対処するため、1990年代にバンコクのカセサート大学と王立灌漑局は、デルタの水文学を理解するための新たなプロジェクトを開始し、フランス人灌漑工学者フランソワ・モールの協力を得て、最先端のリモートセンシング技術を導入した。その結果判明したのは、石井らが民族誌で観察したのと同じような、灌漑インフラストラクチャーと浮稲耕作との複雑な絡まり合いだったのである。
モールたちは、デルタの土地が水文学的な単位に分割されていることを発見し、これを「ボックス」と呼んだ。ボックスは、灌漑用水路に沿った堤防や盛土で囲まれ、その排水は水門によって制御されている。彼らは、アユタヤからチャオプラヤダムまでのデルタ上流域に、このようなボックスを12個確認した。これらのボックスは、デルタの水が「自然」の地形に従うのではなく、用水路や堤防、水門の構成に従うということを意味している。こうして出現したパターンが、各ボックス内で新たな人工的洪水パターンを生み出す結果となった。ボックスの排水を制御する水門は、通常、ボックス内の最も高い場所でも十分な水位を保つように操作される。このような区画は、通常、最初に水が到達する河川周辺に位置している。しかし、どのボックスも上流から下流に向かって勾配があるため、このような形の水制御は、水門の近くに位置する低い場所により深い氾濫をもたらす傾向がある(Molle et al. 1999)。
このようなボックスの様式に加え、新しい灌漑システムは流域レベルでも変化をもたらした。灌漑は主に河川付近の比較的高い場所に水を供給したのである。デルタの畝状の地形では、このような場所は川沿いにあるが、チャオプラヤ川とその支流の間には低層の窪地が見られる。こうした地形のため、これらの低地には灌漑用水だけでなく、高地にある農地からの排水も流れ込むことになった。この水流は、バーンバーン郡のような凹地での洪水を悪化させる(Takaya 1987: 160)。
さらにモールたちは、この新しい流路パターンが、近代的な農業と伝統的な農業の共存という予想外の形態を生み出していることを発見した。近代的な灌漑は、ボックスの中より標高の高い場所で農業の変化が起こりやすい条件を作り出していた。高地の主要河川沿いでは、王立灌漑局によって、「緑の革命」の背景となった短稈かつ高収量の米品種に適した水位が確保された。これに対して、窪地の農家は、浮稲品種を使用するという伝統的な方法で増大する氾濫の問題に対応した(Molle et al. 1999)。 このように、近代的な灌漑は伝統的な農業形態を排除したのではなく、その空間的分布を変化させたのである。各ボックスには浮稲と高収量品種との両方の区画があり、二つの農業形態はモザイク模様を形成するようになった(Molle et al. 1999)。
この頃、洪水に対する懸念から、浮稲の水田が重要視されるようになり始めた。少なくとも中程度の洪水からバンコクを守るための十分な貯水量を持つ空間は、こうした水田しかなかったのである。具体的には、周辺地域から排水が流れ込むデルタ中央部の窪地が適しているとされた。1990年代末には、低地を保水地帯として利用することが洪水管理の中心となった(Japan International Cooperation Agency 1999)。それ以降、バンコクの安全は、浮稲の植えられている窪地に左右されるようになったのである。
フランスとタイの水文学者が水管理インフラストラクチャーの中心部に浮稲を発見した頃、地理的にはるかに広大な範囲を扱う別の科学的調査研究が浮稲の水文学的側面を明らかにし始めた。1960年代の緑の革命では、高収量品種、近代的な灌漑インフラストラクチャー、化学肥料といった画一的な技術の導入に焦点が当てられたが、1970 年代後半には、国際的な農業開発の関心は、環境に適応した多様な地域農業の形態に向かい始めていた(Rerkasem 2007)。南アジアや東南アジア、西アフリカの広大な地域が水郷地帯にあり、大規模なインフラ投資なしに短稈の高収量品種を導入できないことが徐々に明らかになったのである。
このような背景から、緑の革命の主要機関である国際稲研究所(IRRI)は、浮稲の伝統的な品種に関する研究を開始した。IRRIは、フィリピンからバングラデシュ、インドネシアからガーナに至るまで、育種家や農学者の幅広いネットワークを組織し、浮稲の生物学や生態学の比較研究を実施した(Catling 1992)。
人工的で標準化された環境で育つ灌漑稲作とは異なり、浮稲は水文学的・生態学的に大きく異なる条件のもとで生育する。この多様性と、多様な生息地が複雑な水流を通じてつながっているという事実が、デルタ地帯全域を浮稲の生態学的研究の適切な単位にしたのである。IRRIの科学者であるデイビット・カトリングが書いた浮稲の百科事典が、植物そのものではなく、広大なデルタの水文学に関する記述から始まっているのはこのためである(Catling 1992)。 こうしてみると、異なる研究分野が収束する様子が浮かび上がってくる。石井とモールのグループは、それぞれ浮稲栽培と水管理インフラストラクチャーが深く絡まり合っていることを示した。一方、IRRIの比較研究は、デルタの荒々しい水流にさらされる浮稲の奇妙な生息環境をより明確に提示したのである。
ケアの対象としての稲
浮稲のインフラストラクチャーとしての役割は、その茎の伸長能力、つまり洪水の増水に合わせて茎を早く伸ばす能力にほぼ依存している。ダムや運河のような人工インフラストラクチャーとは異なり、この伸長能力は設計することができない。しかし、農民の手で育むことはできる。具体的には、稲と農民の間に特殊な諸関係が生まれることで、伸長性が進化してきたのである。タイの作物学者ベンジャバン・ラーカセムは、次のように書いている。
農民による長期的かつ継続的な種子選別の歴史を通じて、さまざまな洪水環境に適応した在来品種が(中略)生み出されてきた。(多くの農家が一回の種子選別サイクルで数万粒の円錐花序を扱うが、その際、円錐花序の先端にある数粒を軽く叩いて殻を破り、胚乳の質を選別する(中略))入念な品質選別の結果、最も優れた品質の品種が生み出されてきたのである(Rerkasem 2007: 78)。
ベンジャバンが書いているように、品種の精選は何年も要する手間のかかる仕事である。品種は、歴史の産物といえる。また稲の品種を育むには、種子の選別だけでなく、水田でのケアが欠かせない。灌漑にしか関心を示さなかった北東アジアの旅人には見落とされたかもしれないが、この種のケアは、他の生物との異質な集合体の中で育つ稲の品種のダイナミックな特性に起因していた。
農家のサングアンは、お気に入りの浮稲品種「カーウ・マリ(ホワイトジャスミン)」の変化について、雄弁に語ってくれた。高収量品種を作る農家は販売業者から種子を買うのに対し、浮稲を作る農家は自分で「品種を作る(tham pan)」のだという。収穫した種籾の一部をとっておき、乾燥・選別・保管する。「品種を作る」には、種子の選別が肝要である。サングアンは以下のように説明した。「種子選別をやめて手元の種を使うと、すぐに田んぼが真っ赤になってしまう。私も以前そうしたことがあるが、あっという間に赤くなってしまった」。水田が赤くなるのは、赤みを帯びた雑草稲(khaw dit, khaw daen)との混合や、その他の自然発生的な品種個体数の変化によるものである。
植物の専門家によれば、このような変化は、その土地の品種が持つ遺伝的多様性に由来するものだという。稲の在来品種は、個体群の遺伝的構成が多様であるため、通常、遺伝的に不均質である。この不均質性は、「地域環境における自然淘汰を含む、様々な自然個体群のプロセス」(Pusadee et al. 2014) によって、個体群の構成にダイナミックな変化をもたらす。集団レベルで起こる自然淘汰の他に、低確率で起こる個体レベルでの突然変異も変動要因の一つである。もう一つの重要な変動要因は、野原や堤防、あるいは近くの灌漑用水路に生えている野生や雑草の稲などとの交雑にある(菅 1998)。タイの研究者は、雑草稲はもともと堤防や用水路によく見られる野生の稲種との交雑によって生まれたと考えている(Maneachote et al. 2004)。稲は自家受粉する種であるため、このような交雑は低い確率(農学者は1%未満と見積もる)で自然発生する。確率は低いように見えるが、水田には稲が大量に植えられているため、サングアンのような注意深い農業者なら自分の畑で自然交雑種を観察することはそれほど珍しいことではない(菅 1998)。このように、田んぼの中の稲は常に変化している。種苗業者が繁殖のために厳重に管理された品種を販売するのに対し、農家は地元の不均質な品種の中から選定するのである。
現在、タイの水田で新たな変化が起きている。2000年代に入ってから、雑草稲の侵入が深刻な問題となっているのである(Maneachote et al. 2004)。トラックのタイヤに付着した新型の雑草稲は、広範囲に移動し、発芽するのをじっと待つ。しかし農家にとって、これらの雑草種は問題だけでなく、可能性をも秘めている。
チットと雑草稲の問題を議論するサングアンは、困っているというよりも、好奇心に駆られているようだった。彼は言う。「畑のカウディット(雑草稲)の中には、おいしそうなものもある。このあたりの株は背が高く、枝分かれがいい。しかも、種が長くて大きい。種を採れば美味しいかもしれない」。このように、雑草稲でも良い品種になる可能性がある。サングアンがこれまで雑草稲を試さなかったのは、種が食べられないからではなく、小さな刺激で穂から落ちてしまうからである。風が吹いたり、手が触れたり、近くを誰かが通り過ぎるだけで、雑草稲は種を飛ばす。栽培作物の野生・雑草系の近縁種に広く見られるこの種の落ちやすさについて、サングアンは残念そうに説明した。
作物=人間の関係の歴史において、雑草に対するサングアンの関心を共有した農家は多かったようである。日本でも、用水路に自生する雑草稲を利用して新品種を生み出した農民の記録がいくつか残っている(菅 1998)。また、ヨーロッパのオート麦やライ麦が小麦や大麦畑の雑草から発展したことも知られている(Harlan and de Wet 1965)。サングアンの雑草に対する興味が奇妙に見えるとしても、それは同時に作物種の進化の原動力を示しているのである。
中でも、浮稲の伸長能力は、農家が田んぼに出現する差異に細心の注意を払った結果生まれたものである。ベンジャバンは、伸長性の進化が稲の新品種形成の好機を生んだのではないかと指摘する。2006年の大洪水では、水位が通常の洪水レベルを超えたが、研究者は浮稲の中には生き残るものと死んでしまうものがあるのを目撃した。これは、生き残った稲が通常見られない強い伸長能力を有していた結果だと解釈されている(Rerkasem 2007)。異常な状況下で伸長能力の差が可視化され、農家はこの能力を保持するとされる稲の種子を採取することができる。 雑草の多い浮稲の水田は、一見すると無秩序な印象を与える。しかし、こうした稲の姿は、農家にとって「ケアすべき事柄」である(Puig de la Bellacasa 2010)。稲作農家は、劣化や有用な新品種の発見を示唆するような微細な変化や変動に注意を払う。彼らが稲と結ぶ情動的関係は、継続的な細かい観察、丹念な種子選定、そして何よりも美味しい米に対する欲求にもとづいている。そこには、未知の植物世界に対する好奇心や驚きの感覚があるのである。
国家と米という関心事
農民の稲に対するケアは、タイの農業にある長期的遺産を残した。緑の革命が起きたにもかかわらず、タイの農家は在来品種を使い続けてきた。1990年代後半に発表された最後の稲品種調査でも、IRRI系統の高収量品種が稲作付面積の18%しか占めなかった一方、農家が維持する在来品種が28%、在来品種をベースに改良・標準化された品種が54%を占めている(Rerkasem 2007)。この統計が示す在来品種の持続的な使用は驚異的なものである。さらには、政府が開発し、種苗業者が販売する種子も、もともとは在来品種の標準化から生まれたものである。このように、在来品種はタイ農業の近代化の基盤を構成している。
稲の品種の重要性が国家に認識されるようになったのは、20世紀初頭のことである。貿易中心の王国であったシャムの伝統国家は、一般に、農業を国益の外に位置付けていた。農業開発は農民の手に委ねられていたのである(Brummelhuis 2005)。しかし20世紀に入ると、経済が米の輸出に依存するようになり、国家の態度は徐々に変化していく。
この頃、タイの輸出米の品質が深刻な問題になっていた。デルタ地帯の運河建設と埋立は、輸出米生産のための広大な新たな土地を生み出した。しかし米の品質は総じて低く、政府も輸出業者も安値に苦しんでいた(Homan van der Heide 1903)。政府はこの問題の主な原因を、水管理が不十分であることと、精米所に売られる種子に良質と不良質の種子が混ざっていることにあるとした(Anek 2011)。水問題への対応は近代的な灌漑の導入、最終的には半世紀後にチャオプラヤダムという形で実現されたが、種子の問題については、政府は基本的な知識すら備えていなかった。
1908年、ラーマ五世が率いる政府は、バンコクで初の米の品種コンテストを開催した。コンテストの審査員には、農業大臣などタイの貴族だけでなく、精米所の経営者や政府の専門家など多くの外国人が名を連ねた。コンテストには324の農家が参加し、165品種の米を持ち寄り、最終的にはバンコクとアユタヤの間に位置するタンヤブリ地区の村長が優勝した(Anek 2011)。
このコンテストは、米に関する二つの対照的な事柄を照らし出している。一方では、審査員である貴族や外国人は、輸出品としての米の品質に関心を寄せていた。しかし、展覧会のカタログを見ると、彼らは農民がコンテストに持ち込んだ米の品種を基本的によく知らなかったことがうかがえる(Barnett 1910)。他方、農民のコンテストへの熱心な参加は、タイの農民が多くの米品種の存在とその差異をよく理解していることを示す。輸出の見込みはともかく、選抜・出品された品種の品質の高さに誇りをもっていたのである。タイの上流階級と農民では、米との関係が根本的に異なっていた。
米コンテストで集められた種子は、1916年に設立された政府の稲育種所による品種改良の基盤を形成した。育種所では、政府の育種家が「純系選抜」と呼ばれる方法で種子を選別し、標準化した(Somrith 1997)。純系選抜は、種子の品質を均質化するために育種家や農民が利用してきた古い方法だった。それぞれの種子を試験場に別々に植えることで、通常の畑では密集して植えられているため見えない株間の差異を可視化することができた。さらにこの中から最も好ましい性質を持つものを選び出し、均質な品種を作り上げたのである(菅 1998)。1990年代後半の統計では、これらの標準化品種が作付品種の大部分を占めていた。世界で最も売れている香り米の品種であるKDML105は、このようにして開発されたものである。
米コンテストも、デルタの景観を一変させた近代的灌漑インフラストラクチャー開発の試みも、近世の政治経済の変化の産物であった。シャム・ナショナリズムの台頭もまた、この歴史的転換の重要な要因であった。トンチャイ・ウィニッチャクン(Winichakul 1994)が論じるように、フランスやイギリスの植民地勢力とシャムの緊張関係や新しく導入された地図作成技術は、貿易中心の伝統的な政治体にとって実質的に重要でなかった農村や国境付近の空間を国家安全保障の関心事へと変えてしまったのである。米コンテストと近代的な灌漑の試みも、この空間的変化と関連している。しかし米コンテストは、この変化が国家の上流階級の願望以上のものであったことをも顕示する。それは、国家と米品種と農民の間に新たな関係が生まれ、彼らの関心が初めて国家の視線にさらされるようになったことである。 ここにもインフラストラクチャーの反転の決定的瞬間がみられる。ラーマ五世の招聘を受けたオランダ人灌漑技師ホーマン・ファン・デル・ハイデによるデルタ水文学に関する大規模な研究が、その後のデルタ地帯の劇的な変容の基盤を作り上げた一方で(Homan van der Heide 1903; Brummelhuis 2005; 森田 近刊予定)、米コンテストは近代的な育種法をもたらした。さらに、20世紀初頭から得られた知識は、後に石井とモールが行った、複雑に絡まり合うデルタのインフラストラクチャー研究の基礎となった。すなわち、彼らの作業の一部は、デルタの水文学に関する報告書(Homan van der Heide 1903)から得られた既存の知識と米の品種目録を組み合わせることで成り立っていたといえるのである。
再構築されるマルチスピーシーズ・インフラストラクチャー
1990年代半ば以降、浮稲の作付面積は減少し、現在ではデルタ地帯中央部の洪水が起こりやすい場所に限られている。サングアンの圃場もその一つである。現在、浮稲は生産性が低く、その上粒が硬いため精米機で割れやすく、商品としての魅力は低下している。しかし、労働力や肥料の投入が高収量品種よりはるかに少なくて済むため、サングアンはこの作物の将来を楽観的に捉えている。実は、灌漑インフラストラクチャーが整備された直後、彼は高収量作物の栽培に挑戦したことがあった。しかし、数年の試行錯誤の末、投入コストが低い浮稲の方が収益性の高いことに気付いた。稲作学者のベンジャバンも、浮稲の商品価値を高めることに期待を寄せている。籾を精米する前に蒸すという精米の新機軸で、粒が割れるのを防ぐことに成功したからである。実際、パーボイルド・ライスの輸出は、従来の方法で加工された米に比べて急増している(Rerkasem 2007)。
しかし浮稲の存続は、水管理インフラストラクチャーの一部としての重要性が新たに認識されつつあることとも関係している。2011年の洪水後、政府は、チットやサングアンが住むバーンバーン郡を含むデルタ中央部の窪地を保水に利用するという以前からの提案をすぐに採用した(Sapphaisan et al. 2008)。バンコクの洪水を防ぐために、これらの地域の水田を水没させるというものである。バーンバーン郡の農家がこの計画を受け入れたのは、政府が非洪水期の灌漑用水分配の優遇を約束したからである。浮稲でない品種を採用していた農家は作付スケジュールを調整しなければならなかったが、サングアンと彼の浮稲は、すでに洪水の起きる水田に適応していたため、この「新政策」の影響を受けることはなかった。
また、保水地域に指定されていないデルタ地帯の他部分でも、浮稲が復活する兆しが見えてきている。バンコク郊外を囲む巨大な洪水防水壁の建設により、浸水問題が深刻化することが予想されるからである。この防水堤周辺の農民は、防水堤の手前で洪水が滞留することを当然ながら懸念しており、一部の者は浮稲への回帰を検討している。 このように浮稲の不確実な未来は、デルタ地帯の洪水対策の不確実な未来と連動して、衰退と再生の間で揺れ動いている。
おわりに
1970年代から1990年代にかけて、チャオプラヤデルタの水流が変化したことや稲作研究への関心が高まったことにより、日本の地域研究者やタイやフランスの水文学者たちは、浮稲と灌漑インフラストラクチャーの絡まり合いをデルタの景観の中心的特徴として捉えるようになった。彼らの関心は異なる知的系譜に組み込まれており、そのアプローチは日本や中国の文献学、リモートセンシング、IRRIの稲作研究など多様な協力者を得ていたが、誰もが浮稲のデルタの無秩序な水の中で繁茂する卓越した能力に同様に驚かされていた。
インフラストラクチャーは、しばしば、自然をコントロールする人間の能力を指し示すものとみなされる。文化は、ストラザーン(Strathern 1980: 178)が指摘するように、人間の創造的努力の最終結果として捉えられることが多いが、インフラストラクチャーはその典型である。この観点から見ると、自然は通常、インフラストラクチャーの外側に位置し、インフラストラクチャーは自然の中に入り込むか「制圧」しているとされる。しかし、チャオプラヤデルタにおけるいくつかの反転の瞬間が示すように、マルチスピーシーズ・インフラストラクチャーはこの区別に当てはまらない。デルタのインフラストラクチャーを理解し、再設計するための努力は、その外側ではなく、中核にある複数種の絡まり合いを発見することにつながったのである。
このようなマルチスピーシーズ・インフラストラクチャーの中心にあるのが、農民と稲種との情動的関係である。カーラ・フスタックとナターシャ・マイヤースは、インボリューションを「情動的な」関係とし、それが「異なる種を結びつけて新しい生命様式を生み出す」と述べている(Hustak & Myers 2012: 96)。彼女らに倣って、チャオプラヤの複数種インフラストラクチャーの中核を、インボリューション的な絡まり合いとして特徴づけることができるだろう。これまで見てきたように、農民のケアとデルタの水田や運河の空間が、浮稲の繁栄と進化を可能にし、同時に、稲種が農民の実践を変化させる。つまり、浮稲と農民は、相互のインフラストラクチャーの共同創発的な[co-emergent]一部となる。農民と浮稲は、ケアと欲求、驚きに満ちたこのインボリューション的絡まり合いの中で、デルタ地帯で共存する奇妙な術(すべ)を共有し、共創してきたのである。
このような絡まり合いは、インフラストラクチャーの反転を単なる知識形成の様式としてだけでなく、新たな視点で考えるきっかけを与えてくれる。浮稲に関する農民の知識は、フスタックとマイヤーズが「インボリューションの勢い」と呼ぶものの上に成り立っている。科学社会学者のアンドリュー・ピッカリング(Pickering 1995)が存在論的な「行為主体性のダンス」と呼んだものと同様、この勢いは、農民の観察とケアの様式、そして作物の予想外の反応の間で絶えず続く往復運動を描出している。この運動の中で、農民は植物の未知の世界を垣間見るだけでなく、植物と共同で世界を再編する実験に参与しているのである。
一方、科学者や灌漑技術者、国家機関にとって、インフラストラクチャーの反転の瞬間は、馴染みあるデルタの風景を揺るがす出来事であった。このような反転は、新たなインフラストラクチャーのデザインに帰結してきた。こうした再設計と調整の繰り返しの中で、農民と米のもつれ込んだ絡まり合いは重要な役割を果たした。これまで強調してきたように、浮稲はデルタの荒々しい水流と技術システムとしてのインフラストラクチャーのデザインの媒介する役割を果たしてきた。デルタでは、インフラストラクチャーの反転によって、インフラストラクチャーを構成する人工的な部分と複数種の部分、またインフラストラクチャーの技術的設計と人間=米のアッセンブリッジと呼ぶべきものの間の複雑な相互作用が徐々に明らかにされてきたのである。その産物は、インフラストラクチャーのインボリューションと呼ぶことができるかもしれない。
マルチスピーシーズ・インフラストラクチャーという概念は、このようなインボリューションがデルタのインフラストラクチャーを構成していると見ることを可能にする。そしてこのことは、インフラストラクチャーが社会技術的なシステム以上のものであることを示唆している。チャオプラヤデルタでは、他の場所と同様に、インフラストラクチャーは人間以外の種の未知の世界――見落とされ、過小評価される世界――を包含している。農民が、田んぼがいかに変化を生成するのか知らないように、私たちも、インフラストラクチャーの多様性に寄与する参与者をまだ全て知らないのである。
謝辞
本論文の構想は、ナターシャ・マイヤーズとの会話の中で生まれたものである。クレッグ・ヘザリントン、ジェフリー・ボウカー、アンディー・ピッカリング、ヒュー・ラッフルズ、マリリン・ストラザーン、佐塚志保、ジャクリット・サンカマニー、その他匿名の査読者には、本論文の初期草稿にコメントをいただいたことを感謝したい。また、本論文を校閲し、私の英語を修正してくださったキャスパー・ブルン・ヤンセンに感謝を述べる。
開示
著者による潜在的な利益相反は報告されていない。
助成金
本研究は、日本学術振興会科研費(助成番号24251017)および京都大学人文科学研究所の助成により実施された。
注
1. 本民族誌的記述にある名前はすべて仮名である。タイでの規範に従って、本文ではタイ人の名前をファーストネームで引用している。
2. 1644年から1724年までの報告書は、『華夷変態』(林・林 1958)というタイトルで編纂されたものである。この報告書は、1690年に日本の将校に提出された。当時、中国人の船員や貿易商がシャム船で働くことは一般的であった。
3. ジャクリット・サンカマニー (私信)。
4. 人類学全般、特に東南アジア研究において、「インボリューション」は、クリフォード・ギアツによる否定的な用法で知られており、既存のパターンを維持しながら内部の複雑性を増大させる農業発展の停滞様式を示すものである。これは、フスタックやマイヤーズが提唱するドゥルーズに触発された用法とは大きく異なる。
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著者紹介
森田敦郎(もりた・あつろう)
大阪大学・人間科学研究科・人類学研究室(科学技術と文化)所属。Ethnography Lab, Osaka 代表。専門は科学技術の人類学。大規模な技術システムであるインフラストラクチャーと環境、日常生活の関係を主に物質とエネルギー、水循環などに注目して研究している。タイ、チャオプラヤ川流域での洪水防御システムと国際的な水文科学のネットワークの研究を行った後、現在は日本で都市生活を取り巻く物質とエネルギーのフローとに注目した都市のインフラストラクチャーの研究を行っている。特に、都市をモザイク状の生態系とネットワーク状のインフラストラクチャーの絡まりの中から捉えることを試みている。また、つくることを調査手法に取り組むクリティカル・メイキングの実験も行っている。
訳者
田代周平(たしろ・しゅうへい)
オーフス大学人類学科博士課程。同大学環境人文学センター所属。研究関心は人新世的ランドスケープ、陸=海の接続性、国家と周縁地、多種の記憶、思想史など。