人間狩り・奴隷制・国家なき社会
──シャマユー、ミシェル、そしてクラストル
酒井隆史 × 中村隆之 × 平田周
第1回
「グレゴワール・シャマユー/アンチ・フーコーのフーコー主義者」
編集部より
本記事は2021年11月5日、下北沢の書店「本屋B&B」で行われたオンライン・イベント「わたしたちは「人間」であって、人間ではない?」を再構成したものである。
半年以上前に開催された本イベントをここに再録するのは、この5月6日に、この記事内でも大きく取り上げられる思想史家・グレゴワール・シャマユーの『統治不能社会――権威主義的ネオリベラル主義の系譜学 』(信友健志訳、明石書店)という現代政治理論におけるひとつの達成とも言える書物が翻訳・出版されたことを記念する意味も込めている。
再録は全3回に分け、今回は第1回「グレゴワール・シャマユー/アンチ・フーコーのフーコー主義者」を掲載、以降、第2回「オレリア・ミシェル/奴隷制とレイシズム」、第3回「ピエール・クラストル/国家をもたぬよう社会は努めてきた」と続く。
本イベントの企画者のひとりで、昨年9月に出版されたシャマユー『人間狩り』と、また本記事内でシャマユーと同じくスポットが当てられているオレリア・ミシェルの『黒人と白人の世界史』(2021年10月刊)の編集をご担当された元・明石書店の武居満彦氏、そして再録にあたり当日の映像資料を快くお貸しくださった「本屋B&B」さまに厚く御礼申し上げたい。
中村 このたび、グレゴワール・シャマユーの『人間狩り――狩猟権力の歴史と哲学』(平田周・吉澤英樹・中山俊訳、明石書店、2021年)、そしてオレリア・ミシェルの『黒人と白人の世界史――「人種」はいかにつくられてきたか』(児玉しおり訳、明石書店、2021年)という、フランス発の非常に重要な書籍がほぼ同じ時期に翻訳出版されました。
そこで、『人間狩り』の翻訳者の一人である平田周さんにお声がけし、『黒人と白人の世界史』所収の「解説」を書かせていただいたご縁で私が平田さんと出版イベントを企画することになったのですが、その際、酒井隆史さんにぜひゲストとしてお越し頂けないか、という話になりました。
酒井さんは、ご自身の著作(『完全版 自由論』〔河出文庫、2019年〕)のなかでシャマユーへの同時代的な共感を表明されており、かつ、これまで人種差別と暴力の問題への鋭い考察も発表してこられています(たとえば『暴力の哲学』河出文庫、2016年など)。本日は、それが実現できる運びとなりまして大変嬉しく思っています。
実はつい先日、本日これから展開していく話にも深くかかわるであろう、ピエール・クラストルの『国家をもたぬよう社会は努めてきた――クラストルは語る』(洛北出版、2021年)が、まさに酒井さんの翻訳で出版されました。本日はこちらの本についても併せてお話しを伺えれば、と思います。
それではまず、シャマユー『人間狩り』の翻訳者である平田さんから本書の読みどころをご紹介いただければと思いますが、その前に私の方から簡単に確認をしておきますと、シャマユーの日本語への翻訳書は、まず『ドローンの哲学』(渡名喜庸哲訳、明石書店)と『人体実験の哲学』(加納由起子訳、明石書店)が2018年に出版されています。原書出版の順番としては『人体実験の哲学』が最初で、次に『人間狩り』、そして『ドローンの哲学』と続きまして、今回翻訳された『人間狩り』は2010年の著作となります【編集部注・この5月6日にはシャマユー『統治不能社会』の訳書も刊行された(信友健志訳)。原初出版は2018年】。シャマユーには「人体実験」や「人間狩り」といった物々しいタイトルの本が多いですが、それに比べて原書の著者近影などを目にするとやたらとさわやかな人物で、その対照性が印象的です。
平田 ご紹介ありがとうございます。
今日は、「訳者解題」でも書いた内容を前提にして、シャマユーの思想家としての位置づけをシンプルに一つの命題でお示ししたいと思います。
昔、酒井さんが『批評空間』で澤里岳史さんとともにスラヴォイ・ジジェクの『厄介なる主体』を部分的に訳されていましたよね(単行本としては、鈴木俊弘さんと増田久美子さんの訳で出版されています〔青土社、2005年〕)。そのなかで、ジジェクがジャック・ランシエールを評して、アンチ・リオタールのリオタール主義者だとか、エティエンヌ・バリバールを評してアンチ・ハーバマスのハーバマス主義者だとか名指していました。そのようなジジェクの言い回しを借りてシャマユーを形容すれば、それは「アンチ・フーコーのフーコー主義者」ということになるかと思います。
まず、どのような点でシャマユーをフーコー主義者だと言えるのでしょうか。
フランスでは、「エピステモロジー」と呼ばれる科学史・科学哲学の研究領域があります(日本語では「科学認識論」と訳されることが多い学問領域です)。シャマユーはまず、フランスに固有のこの研究領域で博士論文を提出しています。そうした明白な出自の点から、バシュラールやカンギレム、そしてフーコーと続く系譜にシャマユーも連なります。
フーコーは『言葉と物』(1966年)においては「エピステーメー」、『監獄の誕生』(1975年)においては「知と権力」、あるいは晩年には「政治的合理性」といった概念を用いて分析を進めますが、特に政治的合理性について論じた「全体的なものと個的なもの」(1981年)では、ヴェーバーやフランクフルト学派のなかで語られていた「合理化の歴史」を念頭に置きながら、社会全体におけるひとつの合理化の過程が問題なのではなくて、社会のさまざまな分野における複数の合理性のかたちがある、と主張します。シャマユーは『人間狩り』において明らかにこうしたフーコーのロジックを踏襲しつつ、「狩られる者についての理論」、すなわち狩られる人間がいることを正当化する言説が歴史的に変遷してきたことを示しています。
シャマユーは、狩る者/狩られる者の権力関係――狩猟権力――を正当化する「合理性」を古代ギリシアにまで遡って、その系譜学を描き出そうとします。
たとえば、それは、アリストテレスの「自然に基づく奴隷」から始まり、ヨーロッパがアメリカ大陸を「新大陸」として発見したときには、セプールベタのような神学者による先住民狩りを正当化するためのアリストテレスの議論の再利用、さらに19世紀のアフリカを植民地化していく時代になると「自然に基づく奴隷」は言わば世俗化されたかたちでの人種理論に変容していきます。このように、「狩り」の歴史的舞台を描き出しながら、それを正当化する合理性の変遷をも同時に辿っていくシャマユーの記述には、明確にフーコー的な視点が見出せると思います。
このシャマユーのフーコ主義者としての側面は、「あらゆる」時代において社会は自らが機能するために犠牲者を必要とするといったスケープゴート理論を唱えるルネ・ジラールの脱歴史化された「暴力論」や、しばしば 超歴史的な存在論に陥るジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル』の議論とを区別するような論点にもなるかと思います。
では、シャマユーのアンチ・フーコーというモーメントはどこに見られるのか。このあたりについてはぜひお二人とも議論したいところですが、たとえばフーコーの『監獄の誕生』の分析を見ると、「ミクロ権力」や「知と権力の問題」、あるいは「規律訓練」など、いろいろなタームが用いられていますが、それをやや単純化してまとめると、職人の徒弟制度では師は弟子に技術を身につけさせる代わりに服従させ、教育の場では教師は生徒に知識を伝授する代わりに服従させる。あるいは軍隊であれば、上官は、軍隊の破壊力を高めるために(代わりに)兵士を服従させるなど、その場その場での知識の伝授と服従が結びつきながら権力が機能する。こうした権力論は、当時のマルクス主義に見られるマクロなレベルでの国家による暴力的な抑圧といった権力の捉え方とは違うかたちでの権力行使のあり方を明らかにしてきました。
それに対して、シャマユーの『人間狩り』では、現在に至るまで積み重ねられてきた物理的な排除と暴力の歴史が、いま述べたような社会のさまざまな領域に分散したかたちで存在するフーコーの権力関係とどのように接続できるのかという問題が、陰に陽に提起されているかと思います。それはフーコー自身が扱っていないような問題、それこそ物理的な排除と暴力を伴う植民地主義といった問題をどのように扱うのかということでもあります。これは、まさに酒井さんが20年前に『自由論』のなかで、フーコーの権力論とネグリ派が展開する資本の議論とを接続するなかで格闘されていたモチーフです。
もうひとつのシャマユーのアンチ・フーコーのモーメントは『人間狩り』の第5・6章、特にヘーゲルに対する批判が出てくるところにあるように思います。シャマユーは5章の注で『ヘーゲルとハイチ』(岩崎稔、高橋明史訳、法政大学出版局、2017年)を書いたスーザン・バック=モースのヘーゲル評価を一蹴しています。バック=モースは、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」とハイチ革命が交差する点を見出し、ヘーゲルがリベラルなかたちでポストコロニアルな問題にもかかわっていたのではないかという主張をしているわけですが、シャマユーは、主人と奴隷は闘争的なかたちで対峙していたわけではないし、実際のヘーゲルの発言を見ても、それはあり得ないことだ、とその種の議論をシャットアウトするわけですね。ヘーゲルが意識的に、どのような政治的な立場をとっていようとも、現実のプランテーションに組み込まれた植民地での主人と奴隷の関係はヘーゲルが想定していたような1対1の決闘モデルとしては考えられない、と。
シャマユーは、権力の関係はつねに三項関係なのだと言います。つまり、主人は奴隷が反乱したり逃げたりしたときは、手下を使うだとか、犬を放つだとか、あるいは、もっとひどいときには逃げ方が分かっている元・逃亡奴隷を使うだとか、あるいは残虐な兵器まで用いるとか、そういうかたちで三項関係になっている、と。
この三項関係の話は、ヘーゲルのみならずフーコーに対しても向けられているのではないでしょうか。こうした話は『人間狩り』の前著、『人体実験の哲学』でも出てきて、まさに訳者の加納由起子さんが「解説」で書かれていることでもありますが、この本自体、フーコーが1960年に出した『臨床医学の誕生』をすごく意識しているのではないか、と。まさにそのとおりだと私も教えられたわけですが、そこで問題になっているようなフーコーの言う可視性と言表可能性は、つねに医者と患者の二者関係のうちにあるのですね。
シャマユーは、王政の時代は、王しか持たなかった生殺与奪の権利を、医者に譲渡するかたちで、被検体となる死刑囚、医者、王の三項関係になると言っています。単純化して言うと、フーコーの「規律権力」の見方だと、なにか囲いをして固定された二者間の権力関係に収斂していくかたちになりますが、シャマユーのように権力を三項関係として捉えることで、割と合理的にクリアなかたちで国家や資本の問題を含めた権力の次元を再解釈できる、と言えるのではないかと思います。
以上が、シャマユーをアンチ・フーコーのフーコー主義者と形容する理由です。
最後に少し、シャマユーの叙述の部分について。
この点は、『黒人と白人の世界史』のオレリア・ミシェルの話とも重なると思いますが、シャマユーは動物学的な捕食者や被食者の関係をすごくテマティックに扱うなかで、植民地主義を分析対象にしています。もちろん終始メインの分析対象としているわけではないですが、そのことで逆に、背景として強烈に植民地主義の姿を浮かび上がらせる結果になっているように思います。その点で、植民地主義の問題に新しい光を当てる、新しい見せ方をすることで、議論をスリリングに展開できているのではないでしょうか。
『人間狩り』のなかでも、人種の話は簡単に触れられていますが、『人体実験の哲学』の最後の第11章は植民地の話です。そのなかでシャマユーは、科学的に人種主義が正しいのか正しくないのかは重要ではなく、人種主義は装置なのだという議論をしています。まさにそこがオレリア・ミシェルの『黒人と白人の世界史』の話にもつながるのではないかと思うのですが、『黒人と白人の世界史』の冒頭では、ユネスコが第二次世界大戦後に世界中の科学者を集めて「人種概念は科学的に無効である」と宣言したにもかかわらず、その後6、70年ずっと人種概念は残っていることが触れられています。その制度性や装置のあり方というものはなにか、という問題です。私からの紹介は以上です。
中村 ありがとうございます。非常に濃密な話で、核心的なことをおっしゃっていただいたと思います。
いま平田さんの方から、シャマユーの思想的な立ち位置を「アンチ・フーコーのフーコー主義者」という印象的な言葉でご紹介いただきました。フーコーは、「司牧権力」という言葉を使い、規律型の権力からより洗練された支配/被支配の構造を明らかにしていった人なわけですが、シャマユーは、今回の本のなかで「狩猟権力」という用語を使っています。人間を狩猟民という、もっとプリミティブなレベルで捉えようとしている。「アンチ・フーコーのフーコー主義者」としてのシャマユーの側面は、おそらくは「狩る/狩られる」の関係、そういう権力の形態を提示した点にもあるのではないか。そして、ある時点から狩猟権力が司牧権力に変化していったというわけではなく、権力のもうひとつの系譜として、一貫して狩猟権力というものが存在してきたのだ、と。そういうラインを示したことが、この本の読みどころなのかなと思います。
シャマユーは「フーコーの再来」と形容されたりもしますが、フーコーと明確に違う点として、やはり書き方が新しいですよね。はっきり言えば「現代(いま)の人」です。フーコーの本は読むのにすごく時間がかかりますし理解するのも大変ですが、シャマユーの場合は読みやすいうえに難なく理解できてしまう。オレリア・ミシェルも年齢はシャマユーと同じくらいなのですが、やはり「現代の人」という感じがします。翻訳も比較的やりやすいですし、章も短いですよね。鋭い分析を展開しながらも、ある種のエッセイ風になっています。そういうアプローチの仕方も含めて新しい人だなと理解しています。
シャマユーのテキストは書き方だけでなく、思想の新しさも当然あります。フーコーが正面から取り上げることのなかった植民地主義の問題についても彼の理論ははっきり射程に捉えて論じている。
さきほど平田さんから、第5、6章のヘーゲルの評価についてのお話がありましたが、私自身、カリブ海のフランス語文学を研究してきた立場からすると、スーザン・バック=モースの『ヘーゲルとハイチ』を読んだときには非常に感銘を受けたことをお伝えしておきたい。なぜかというと、ヘーゲルが生きていた同時代に起きたハイチ革命との比較で、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」について捉えなおそうとする見方は、ヘーゲル研究者の視点からはなかなか出てこなかったからです。
ハイチは1804年に独立し、教科書的には黒人初の共和国と言われています。その共和国が成立し、サン=ドマング憲法ができたりするわけですが、ある意味、フランスの共和制を引き継ぐかたちでハイチは独立する。そのとき、戦闘のプロセスのなかで、やはり主人と奴隷の関係が転倒した、と言えるわけです。ただ、ヘーゲルの思想自体をポストコロニアルな可能性と結び付ける、ということはシャマユーが手厳しく批判しているとおりで、ヘーゲルの『歴史哲学講義』などを読めば、そうではないことは明らかなわけですね。ただ、シャマユーの批判は、スーザン・バック=モースというよりはヘーゲル自身に向いているように思います。
ついでに、植民地の作家や思想家にとってヘーゲルはどんな存在だったかというと、「自分たちを「歴史なき民」にした人だ」という認識が強い。いわゆる、進歩史観ですね。ある種の文明論の中で、「自分たちの文化は常に停滞したところにある」という意識を強く刻みつけられた。このため、植民地の作家や思想家はヘーゲルの弁証法的な仕掛けからどのように出ていくか、という課題を引き受けざるを得なかった。
あともうひとつ、先ほどお話しした狩猟権力のモデルとして、最後の第12章では「不法者狩り」の話になります。前半の章では、古代ギリシアから始まり、15、6世紀に新大陸でスペイン人たちがインディオを狩っていく「先住民狩り」の話などが展開されますが、大事なのは「人間狩り」とはそういった過去に属する話のみではなく、21世紀の現代においても、国家権力が「不法者」というかたちで人々を不安定化し、狩られる対象にしている、といったアクチュアルな話へとシャマユーが接続していくことです(それは、クラストルの話にもつながっていくと思いますが、この話はまた後ほど)。
さらに、原著の順番では『人間狩り』のあとに出版された『ドローンの哲学』においても、その延長線上で、狩猟権力の現代的な形態としての遠隔テクノロジーによる戦争のあり方が提示されています。『ドローンの哲学』の訳者の渡名喜庸哲さんが「解説」で書かれていますが、いま、遠隔テクノロジーによって、さまざまなかたちの、身体を介在しないような「人を殺す/殺される」という関係が生まれています。
テクノロジーというものは、初歩的な段階では、石器時代の斧のように、身体を拡張する道具、つまりは人間を助けるものとして捉えられていました。その関係が、20世紀になって反転したとよく言われています。技術が人間を凌駕してしまったことで、その技術自体にわれわれが使われていたり、制御不能な状態に人間が曝されたりする。つまりは、原子力や人工知能の話題にもなるわけですが、この数年間で、遠隔での視覚を通したテレコミュニケーションが非常に発達しました。これまでまったく見慣れなかった光景です。現在、人間存在とテクノロジーの関係は、『ドローンの哲学』のまたひとつ先にあるのかもしれません。
酒井 いまのお二人からのお話を受けるかたちで、いくつか考えたことをざっと述べさせていただきます。
まず、スーザン・バック=モースの話が出ました。『人間狩り』は、言わばオーソドックスなヘーゲルの解釈に戻って、ヘーゲル批判を行なっているので、バック=モースの斬新なヘーゲル解釈は批判の対象になるわけですし、それを読むと、やはりそれが妥当にも思えてきます。
ただし、そうした批判を展開する前に、彼女の『ヘーゲルとハイチ』はゼロ年代に出版されたわけですが(原書出版は2009年)、その画期性は確認しておくべきかと思います。この本は、ヘーゲルの『精神現象学』における「主人と奴隷の弁証法」をハイチ革命の文脈で、あらためて当時の時代状況のなかで読み返してみせた、きわめて重要な仕事です。つまり、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」は、これまで私たちの目にしてきたものは、ほとんどヨーロッパ思想史的文脈によるものだったからです。フランス思想が優勢になる20世紀後半の文脈で、とくにコジェーヴの読解を介して「バタイユが影響を受けた」だとか「ラカンが影響を受けた」といったような。
そうした、ヨーロッパ思想史に閉じたテキスト中心的解釈が進むなかで、バック=モースは一挙に文脈に広げて見せました。かつ、バック=モースの本が重要なのは、ハイチ革命の重要性をあらためて知らしめたことですよね(この論点は、フュレ派のようなフランス革命をめぐる歴史修正主義に対するくさびという点でも重要です)。
フランス革命とハイチ革命は、パリの民衆の路上での闘争と、ハイチでの反植民地闘争が呼応しながら進んでいくようなかたちが見られたのですが、ハイチ革命によるフランス革命の「反復」は、それこそその「オリジナル」の真実を開示するようなかたちで進んだのです。そしていつも重要なのは、この反復のほうです。
そしてこの革命をへて、アフリカの奴隷たちがはじめて国家をつくったわけです。もちろんその後の悲惨な歴史もあります。いまハイチは世界でもっとも貧しい国のひとつですが、その背景には、のちのフランスの懲罰的な賠償が影響していることはよく言われます。このエピソードは、次の議題である、『黒人と白人の世界史』のなかにも現れているわけですが。
バック=モースの本に絡めてここで強調したいのですが、最近文庫化されたエリック・ウィリアムズの『資本主義と奴隷制』(中山毅訳、ちくま学芸文庫、2020年)という本があります。この本は名著ですが、実は資本主義の成立に奴隷制がいかに大きく関わっていたかを論証したこの(いわゆる)「ウィリアムズ・テーゼ」の源泉には、C・L・R・ジェームズというマルクス主義者の作家・理論家がいます。
「ウィリアムズ・テーゼ」の諸言説は、C・L・R・ジェームズが初めて言葉にしたことの影響を大きく受けている(ちなみに、ジェームズはトリニダード生まれの黒人で、もともとはクリケットのアスリートです)。ジェームズにはハイチ革命を扱った『ブラック・ジャコバン』(青木芳夫監訳、大村書店、1991年)という本があるのですが、こちらは名著どころか、とんでもない傑作です。20世紀のあらゆる知的書物を代表する数冊に入る本だと私は思っています。
日本語圏では、近年マルクス主義への(マルクス自身へもそうかもしれませんが、それ以上にマルクス主義への)無理解があまりにひどいと感じることが多々あるのですが、ウィリアムズとジェームズの注目のされ方の違いにも、さらには彼らの知的系譜関係がほとんど語られないことも、その現れのひとつだと思います。
この本は翻訳も素晴らしいのですが、残念なことに現在日本語では入手困難な状況になっています。この本こそ、いつでもみんなが読めるような状態にしておかなければならない。これは業界関係者への訴えです(笑)。90年代以降、ポストコロニアルな言説の隆盛に絡むかたちで、とりわけマルクスやマルクス主義のヨーロッパ中心主義の批判は盛んになりました。それに意味がないとはもちろん思いませんが、一方、それが現在の、こうした多種多様だったマルクス主義への無理解が広がっているひとつの文脈にもなっていると思います。その無理解は、20世紀の知的蓄積の軽視や、あるいは無視、もっと言えば「歴史修正主義」とも無関係ではないのではないか。
こうした被植民者の非白人の基本的に「アマチュア」である知識人が、そのフレームを借用して、こうしたとてつもない世界史を書けてしまうことを可能にするのもマルクス主義です。『ブラック・ジャコバン』の異様な迫力は、民衆が自らの桎梏をほどいていく過程、歴史を推進していく下からの力への確信、そして世界史的事象の複雑さへと分け入っていくことにマルクス主義がどれほど有用たりうるかを実証しているように思います。その限界を正確に測定したいのであれば、この点を認識することなしにはありえない。
シャマユーについてですが、先ほど平田さんがシャマユーを「アンチ・フーコーのフーコー主義者」と言われましたが、私自身もその文脈でいえば「アンチ・フーコーのフーコー主義者」ということになるかもしれません。
ここですごくざっくりと言うと、フーコーという人は基本的には第二次大戦後のヨーロッパ社会で生きた人です。言わば「ケインズ主義的福祉国家」の時代の人なわけですね。ですから、彼は福祉国家をつねに念頭に置きながら系譜学をやっていた。よって、彼のネオリベラリズム論が、ある種の「まぬけなネオリベ信奉者」のように映る場面があるのも仕方がない側面もあります。彼の思想には、それを超えるところと、超えられなかったところがある。いずれにせよ、近年の一連の国際的なフーコー研究はすでに晩年のフーコーを言わば「丸裸」にしつつあります。
たとえば最近刊行されたばかりのミッチェル・ディーンとダニエル・ザモラの『ザ・ラストマン・テイクス・LSD(The Last Man Takes LSD: Foucault and the End of Revolution, Verso, 2021)』は読まれたでしょうか? これはこの手の研究の決定版と言えると思いますが、10年以上遅れてフーコーがアメリカの西海岸とドラッグカルチャーにはまって、すでに観光地化した伝説的スポットでピンク・フロイドやクリムゾンではなく、ブーレーズなんか流しながらトリップしている。そしてその、いまさらながら「知覚の扉」を「ブレイク・オン・スルー」して「アザーサイド」に達して、自らの仕事を見直し、その経験を黎明期のネオリベに共鳴させて、ここに統治術の学ぶべき範例がある、左派はこれに学べと言い始める。社会主義の再生は、ネオリベラリズムの統治術を経由することでなしうるのである、と。
私たちはネオリベル化した左派の末路を「第三の道」としてすでに知っています。フーコーが生きていたら、その路線にどこまで実際に加担したかはともかく、その方向が破滅的であったことはあきらかです。ただし、(あらゆる領域で保守化の貫徹した)日本語圏でまず力点をおかなければならないのは、フーコーがネオリベラリズムをあくまで「社会主義」という目標のための道具としてとりあげた、ということは強調しておきます。
とはいえ、ここでいう「ラストマン」は、LSDを食って「覚醒した」と叫ぶ「最後の」人間という意味とニーチェの「末人」をかけているわけですが、痛烈な皮肉ですよね。もちろん、フーコーの理論は濃密で多面的であり、あっさりそれだけに還元できるものではありません。1968年以降の数年間のフーコーが、むしろやはりいまだ輝いているというか、その真価はむしろ、いま評価され始めているのかもしれません。♯Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)にその一端が表現されている「アボリショニズム」のあらたな展開のなかで、中期フーコーの作業はあらためてアボリショニストの系譜に属するものとして読み返されています。私はここに、いま一番アクチュアルなフーコーがいると感じています。
このような知的な一連の動きの核心部分に「レイス(人種)」の問題がある。今日のイベントのきっかけになった2冊の本は、どちらもレイシズムや奴隷制の問題に深くかかわっています。そして、それは資本主義の起源にもかかわっているわけですね。
このところ日本でも、資本主義の起源に、大西洋奴隷貿易とレイシズムとが置いて考えられ始めているように見受けられます。ブラック・ライブズ・マターみたいな大きな問題が可視化され、「階級」と「人種」と「ジェンダー」の問題が重層決定されて現れてきている。とはいえ、近代の初発からそれは重層決定として現れていたとも言えます。つまり、人種の闘争が同時に階級闘争として現れ、それがいつもアンビバレントな関係を持ちつつ進む。そして、それをナショナリズムが回収し、レイシズムで階級闘争を抑圧し、しかし階級闘争がそれにまた対抗していく、等々。
たとえばシャマユーの『人間狩り』は、フーコーが示した福祉主義的国家像を「ナンセンス」と断じています。フーコーの福祉国家像は、基本的には包摂、つまり司牧権力に集約されます。しかし、ポスト福祉国家権力において前景化しているのは排除であり、それは殺しに至ることもしばしばあります。フーコーに影響を受けたフーコー主義者は、警察や権力への批判を古い、と捉える傾向が強かった。ところが黒人たちはずっとそんな悠長なことを言っているわけにはいかなかったのです。実際に殺されまくってきたわけですから。「ポストモダン」と謳われた社会のなかでもアメリカの黒人たちは、しょっちゅう警察に殺されてきた。ヒップホップという音楽の背景にはそうした現実があるわけです。
それはもちろん他の先進国、たとえばフランスでもそうです。『憎しみ(La Haine)』(1995年)という映画で描かれた郊外での問題が暴動につながっていくような。20世紀から何にも変わらない典型的なパターンですが、植民地や第三世界では、それが当たり前のことだったわけです。
フーコーをよく読むと、フーコー主義者が言うような「暴力批判は古い」とか「国家とか警察を重視するなんて古い」なんてことを彼自身は言わないわけです。フーコーは、「時流」と現実を取り違えはしない。とはいえ、それでもやはりフーコーはどこかで問題をマージナル化するところもある。もちろん時代の趨勢のなかで「棒を逆方向にねじ曲げる」ということは不可避とはいえ。やはり、彼は権力がおせっかいにもわれわれの生命に介入し、それを促進しようとしてくる、みたいな問題に焦点を合わせました。
そうした福祉国家の性格がどんどん剥奪されていき、もはや住民が少々死んでも意に介さない世の中がやってくるとは、20世紀の先進国のマジョリティたちは、高度成長のなかあまり考えていなかったと思います。
ところが、いまそういう社会がやってきています。そうなると階級の問題や暴力と主権の問題が顕在化し先鋭化してきます。人を境界分けし、国境をつくり、生きるべき人、生きなくてよい人を分ける。それが貧困問題と重層決定する状況は、まさに階級と人種の問題が不可分であることの現れなわけですよね。だからいまレイシズムの問題が、同時に階級の問題として出てきている状況が知的にきわめて重要になってきています。
そして、レイシズムへの理解も歴史的な深まりを見せています。
シャマユーのこの本は、まさにフーコーがマージナル化しネグレクトしてきた極めて重要な問題を扱っています。レイシズムというのは、根本的には、人間を追いかけ、線引きし、排除したり放り出したり、そして殺したりする権力のことです。
つまり、レイシズムの問題はフーコーの司牧権力分析からは出てこない。まさにシャマユーの言う狩猟権力――追って、捕まえ、監禁し、ときには殺す権力――という概念を使って捉えなければ、そうした権力の迫り上がりも見えてこない。それを独自に分節し系譜を辿ろうと試みる重要な本だと思います。
中村さんがおっしゃるように、『人間狩り』はエッセイ風で少し軽い書き方ですよね。フーコーみたいな濃密な分析はないですが、そういう意味でも大きなパラダイム・シフトを代表するひとりの論者であると思います。感動的なところもいくつかあったので、それはあとで話したいと思います。
中村 ありがとうございます。シャマユーの狩猟権力という目のつけどころは、フーコーの福祉国家論の次を見ているからだ、と。レイシズム、階級の問題、そうした時代の問題意識と不可分に結びついている仕事なのだとはっきりと位置づけてくださったことで、『人間狩り』がより手に取りやすい本になったのではないかと思います。
酒井 厳しい内容ですけど、読みやすいですよね。
(第2回へ続く)
著者紹介
酒井隆史
1965年生まれ。大阪府立大学教授。専門は社会思想、都市史。著書に、『ブルシット・ジョブの謎』(講談社現代新書)、『通天閣』(青土社)、『暴力の哲学』『完全版 自由論 現在性の系譜学』(ともに河出文庫)など。訳書に、デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』(共訳、岩波書店)、『官僚制のユートピア』(以文社)、『負債論』(共訳、以文社)、ピエール・クラストル『国家をもたぬよう社会は努めてきた』(洛北出版)など。
中村隆之
1975年生まれ。早稲田大学准教授。フランス語を主言語とする環大西洋文学、広域アフリカ文化研究。著書に『エドゥアール・グリッサン』(岩波書店)、『野蛮の言説』(春陽堂書店)など。訳書に、アラン・マバンク『アフリカ文学講義』(共訳、みすず書房)、エメ・セゼール、フランソワーズ・ヴェルジェス『ニグロとして生きる』(共訳、法政大学出版局)、エドゥアール・グリッサン『フォークナー、ミシシッピ』(インスクリプト)など。
平田 周
1981年生まれ。南山大学准教授。思想史。共編著に『惑星都市理論』(以文社)など。共著に、『コロナ禍をどう読むか』(亜紀書房)、共訳書に、グレゴワール・シャマユー『人間狩り』(明石書店)、クリスティン・ロス『もっと速く、もっときれいに』(人文書院)など。