なぜいま〈平和都市〉なのか?
仙波希望インタビュー(聞き手=齋藤雅之)
2024年8月12日、札幌の多目的スペース「苗穂基地」で、小社より8月に刊行した、仙波希望『ありふれた〈平和都市〉の解体──広島をめぐる空間論的探究』 の刊行記念トークイベントが行われた。イベントを運営してくださった「苗穂基地」メンバー各氏、そして本記事用の「文字起こし」にご協力くださった小嶋宏維氏、また、当日、見事に本書の要所を著者から引き出してくださった司会の齋藤雅之氏に厚く御礼申し上げたい(以文社編集部)。
なお、2024年11月19日(火)には、下北沢の本屋B&Bにて、アーティストの卯城竜太さん、松田修さんをお迎えし、本書の新たな出版記念イベントを開催予定です。詳細は本記事末尾でご確認ください。
空白としての「平和」
司会(以下、──) 仙波さんの『ありふれた〈平和都市〉の解体』、大変面白く拝読しました。この本は、広島研究や都市研究をフィールドにしたいわゆる「学術書」ですが、同時に、専門外の人たちが読んでもすごく刺激を与えてもらえるのではないかと思いました。たとえば、本書にはアートや建築に関連するエピソードもたくさん出てきます。ここ「苗穂基地」で本書を紹介するトークイベントを企画した理由の一つも、この場所がアートや建築に縁が深い場所だからということがあります。
さて、本書を広島研究として考えたときに、ユニークなポイントが3つあると思いました。1点目は、「広島=〈平和都市〉」という構図そのものを検証しようとしている点。2点目は、「8月6日」以外の日付から広島の歴史を捉えようとしている点。3点目は、「都市論」から広島を考えている点、です。
まずは最初の「広島=〈平和都市〉」という構図をめぐる話から始めたいと思います。〈平和都市〉とは、いまも広島市が掲げている宣言(スローガン)ですよね。それを踏まえたうえで、本書の冒頭に出てくる二つの文章を引用させていただきます。
〈平和都市〉のその内側にある「平和」の意味が定位されたことはおそらくない。(p.10)
続いて直後にこんな文章もあります。
「平和」はどうして「被爆体験」と接続されるのだろうか。(p.11)
どちらも、一般的な認識からすると意外な記述だと思います。まずは、この二つの文章が意味することを教えていただいてもいいでしょうか。
仙波 後者からお話するのがわかりやすいかもしれません。皆さんもご存知の通り、1945年の8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。そのとき、人類史上おそらくもっともおぞましい状況が広島に生じた。
それを前提にしたうえで、なぜその極限の状況を呈した場所が、のちに〈平和都市〉になるのか。当たり前ですが1945年8月6日の時点で広島は〈平和都市〉ではない。 ということは、誰かが「平和」という言葉を選んだわけです。さらに言うと、そういった極限状態を強いられたことが、必ずしも「平和」という発想に至る、という保証はないとも思うんですね。
──何よりもまず怒りの感情の方が強く呼び起こされてもおかしくないですよね。
仙波 「怒りの広島 祈りの長崎」という言葉もあります。ですから、原爆投下がなされたからといって、それが即座に「平和」という標語には実は結びつかないのではないか、というのが先ほど引用された文章に込めた問いです。
そのうえで一つ目の引用文について話すと、「平和」の意味はその時々で変化するものです。たとえば、8月6日8時14分までの広島において、「平和」の意味は現在とはまったく別のものだった。それは東洋の「平和」であって、つまりはいかにして大東亜共栄圏を「敵国」から守っていくのか、という意味です。戦前はそういう意味で「平和」という言葉が市井のレベルで使われていた。「平和」の意味というのは、人々が信じているものに従って変わるものでもあります。
だとして、「じゃあ、〈平和都市〉の掲げる「平和」とはどのような意味なのか」とか、「それって本当の意味で「平和」なのか」といった議論はおそらくきわめて希少である。
──なるほど、戦前に言われた「平和」という言葉は非常に軍国主義的なイデオロギーを帯びていたのに、敗戦後には同じ言葉が戦後民主主義的な意味合いに変わっていく。正反対の志向であるにも関わらず、なぜか同じ「平和」という言葉で括られてしまう。そうしたことへの疑問、ということでしょうか?
仙波 その側面ももちろんありますが、僕はむしろ両者は直接的につながっているとも考えます。というのも「平和」という言葉はある側面において意味が空白だからです。空白であるからこそ意味が問われないまま絶対視されている言葉というのはほかにもありますよね。「愛」や「人権」など。こうした言葉に連なるものとして「平和」があると思います。
──なんとなく、「文句がつけづらい」気がする言葉ですよね。
仙波 もちろん、「愛」も「人権」も「平和」も、ただ否定して済むような簡単な言葉ではないでしょう。では、その否定できない、もしくは否定そのものを忌避させてしまう「平和」(という標語、スローガン)について、これまで人々はどのように考えてきたのか。あるいはなぜ否定できないのか。こうしたことを考えるために、「都市」という文脈を導入した、それが本書のポイントですね。
復興スローガンとしての〈平和都市〉
──この本の第3章のタイトルに「〈平和都市〉の発明」という文言があります。いまお話いただいたように、「平和」という言葉が空白だったとしても、それが選び取られ、〈平和都市〉という概念が「発明」された経緯が第3章に書かれていたと思います。そのあたりを少しお話いただけますか?
仙波 〈平和都市〉の根拠は、1949年に制定された「広島平和記念都市建設法」という地方特別法によく求められます。特定の地方公共団体のみに認められる法律を地方特別法というのですが、それが広島につくられたわけです。
そもそも最初に「平和への記念都市」という言葉が大々的に使われたのは、1945年12月19日、当時の県知事の楠瀬常猪(くすのせ・つねい)が『中国新聞』に発表した復興構想のなかでした。そこで言われたのは、広島の観光地化構想です。「瀬戸内海大観光地帯のセンターポイント」という言葉を使って、要するに「これから広島は平和の記念都市として、観光で売り出していくぞ」ということですね。
──観光というのは意外ですね。原爆投下の直後でしょう?
仙波 要は、観光地化するからこそ、資金を国、GHQに求めよう、という論理ですよね。当たり前ですが、当時の広島は原爆投下の直後であるうえに、枕崎台風の被害もあって、街はボロボロ…どころの話ではない。「観光地化」はあまりに現実離れした発想です。
もちろんそこには復興に対する切なる願いがありました。というのも、当時は全国に戦災都市が110を超えてあったのですね。戦災復興院という国の機関が復興計画を指揮していたのですが、たとえ原爆による甚大な被害を受けたとはいえ、広島だけ特別扱いすることはできなかった。
──たとえば東京も神戸も空襲被害を被っているのだから、広島を特別扱いすることはできないと。
仙波 理由は二つあります。一つには、現実問題として資金が足りず、特別扱いする余裕がなかったということ。もう一つには、やはりGHQの存在が大きい。当時、原爆報道はGHQによって規制されていました。そうした検閲は(地方メディアを中心に)すり抜けられたという研究もありますが、一般的には、原爆の被害が知れ渡っていくのは1950年代以降です。だから、原爆の被害がどんなものだったのか、当時はまだ広く詳細に知れ渡っているわけではない。
こうした状況のなかで、なんとか国に、つまりはマッカーサーに、広島が特別な場所であることを認めさせなければならない。ではどうするか。これはもう地方特別法でいくしかない、ということになります。その方針が固められたのは、1948年12月の参議院食堂でのことですが、そこから半年と経たずに、先ほどの「広島平和記念都市建設法」が制定されます。
── 一つには、復興資金の獲得が必要である。もう一つには、広島を特別扱いしてもらわなければならない。さらには、アメリカの許可を得なければならない。この3つの条件をクリアする言葉として「平和」という言葉が選ばれた、ということでしょうか。
仙波 「平和」という言葉だったからすべてが上手くいったとは必ずしも言い切れない面もあります。ただ、一定の方向性を見せていくための言葉として選ばれたのはたしかですね。「平和」というのはある意味での脱臭、脱色を果たす言葉でもある。
──その構造はいまも変わっていないように思います。たとえば自治体が国から補助金をもらうときや、あるいは行政機関から助成金をもらうときには、少なくとも表向きには当たり障りない言葉を使いますよね。国から地方へとお金を引き出すのは、いまも昔も日本の政治の中心的な機能だと思いますし、それが代議士の仕事の華になっていたりもするわけですが、その構造が原爆からの復興の際も同じだったという事実は、自分がこの本を読んで最初に驚いたポイントです。
〈平和都市〉への批判
──さて、こうした経緯で生まれた〈平和都市〉という概念ですが、批判も多かったようですね。この本の第1章では、2000年代以降に隆盛した「記憶研究」という分野のなかで〈平和都市〉が批判されてきた経緯が書かれています。
本書で特に印象的だった概念に「〈平和都市〉の二分法」というものがあります。これについてお話いただけますか?
仙波 〈平和都市〉をめぐっては、あえて単純に図式化すれば、これまで肯定派と否定派にわかれていました。
肯定派の議論はたとえば、〈平和都市〉を掲げた広島の復興を奇跡的なもの、または他の様々な人災・戦災を経験した都市のモデルケースとしてみなします。対して否定派の議論は、〈平和都市〉という概念が人々を蔑ろにしてきたことを指摘します。たとえば復興の際に、バラック小屋が排除されたり、あるいは、〈平和都市〉の名のもとに暴走族や露店の土産屋が排除されたりもしたわけです。
それぞれの視点が必ずしも「間違っている」というわけではありません。というよりも、その「対立」がきちんと成立する局面では、そこに重要な意味が生じてきた。しかし、本書ではこの二つの分極構造をあえて「〈平和都市〉の二分法」と位置づけたうえで、それを乗り越えようと試みました。肯定するにせよ否定するにせよ、〈平和都市〉というものが一体何であるのか、誰がどのようにこのスローガンを使ってきたのか、それがどう空間に波及したのか、翻ってその空間が人々の言説や認識や考え方にどう影響を与えてきたのか、そういうダイナミズムに言及したものは、自分の知る限りでは少ないようにみえました。
── 一方には、行政官僚や政治家のようなパワーエリートたちによって〈平和都市〉という理念がつくられ、それを遂行してきたという面がある。それに対し、市井の人々は〈平和都市〉という理想が掲げられることにより排除されたり虐げられたりしてきたんだという反発がある。しかし、この図式だけでは見えない側面もあるということですよね。
仙波 この本の目論見は、二元論的な理解を方法論的に留保することです。たとえば「パワーエリートvs(無垢な)市民」だったり、あるいは「被爆者vs非被爆者」といったような二元論を一度留保してみようと考えました。広島研究という分野では、この図式が無前提に採用されてしまうきらいが、たしかにありました。
平和塔が示す、都市の矛盾
──そうした二分法的な図式を超克するために「都市論」という方法を導入するのがこの本の戦略だと思うのですが、ここではもう少し具体的な事例をご紹介いただきたいと思います。この本では、具体的なモノや事象を論じることで、「広島=〈平和都市〉」という等式が矛盾してしまっていることを示していきます。たとえば、第6章で論じられたのは「平和塔」でしたね。
仙波 広島には「平和塔」と呼ばれるものがたくさんあります。すでに壊されていたり、計画が頓挫したりしたものもあるのですが、それらを一連の運動体として捉えたのが第6章の議論です。
たとえば、いまも宇品にある平和塔はもともと日清戦争凱旋碑という名前でした。広島にはかつて、日清戦争の拠点だった大日本帝国陸軍第五師団がありました。兵士が中国から帰還するのが宇品港なので、そこに凱旋門がつくられます。そのときに市民の有志で建てられたのが、この日清戦争凱旋碑です。ところがこの塔は、1947年に何者かの手によって「平和塔」という名前に変えられてしまう。しかもその後、何もなかったかのように20年ほど放置されることになります。
──日清戦争凱旋碑はきわめて愛国主義的な象徴だったのに、同じ建造物が戦後間もなく「平和塔」という名前になった。しかも名前を変えたのが誰なのかわかっていないというのは面白いですね。
仙波 いまはすぐ隣に消防団の建物があったりして、この塔は街中で異様な存在感を放っています。いわばその場の雰囲気から浮いている。で、この浮いている感じはなんだろう、と考えるわけです。
たとえば、「この塔はかつて広島が軍都だったことを隠蔽している」といった批判的な論調もありますが、さらなる論点がここにはあると考えます。「軍都」とも〈平和都市〉とも、どちらとも一元的に言い切れない矛盾みたいなものを、もとより平和塔は示している。「モノ」と場所の関係を「布置」と言いますが、平和塔の布置の変化を追うことで〈平和都市〉の矛盾も「軍都」の矛盾も見えてくる。むしろそれは都市自体が内包する矛盾であるようにも思います。
──最近のSNS上の議論に典型的ですが、とかく歴史は単純化して語られやすいですよね。8月6日を区切りとして戦前と戦後が断絶しているようなイメージがあるかもしれない。しかし実際には、戦前と戦後を跨いで同じ場所に同じ建物があったりする。逆にいうと、同じモノが継続して存在していたとしても、その場所で何が起こっているのか、そこに誰がいるのか、近くに何があるのか、そういった要因によってその都度モノが持つ意味が変わっていく。まさにアクターネットワーク理論のような話ですね。
仙波 まさにそうです。たとえば宇品の平和塔の頂点にある彫刻は、本来は鷹をかたどったものでしたが、風化して鳩のようにも見えてくる。
──平和の象徴!
仙波 そう、結果として「平和塔」として矛盾がなくなっているともいえるのですよね。場所やモノに対して誰かが意味を与えたり、もしくは名づけたりしたからといって、それですべてが決まるわけではない。意味づけや名づけはきわめて重要なファクターではあるけど、それをモノ自体が否定することがある。そうした否定を示すモノによって、また場所も変化していく。こうしたプロセスはある意味ですごく面白い。
──なるほど。この平和塔は、「広島=〈平和都市〉」という見立ての矛盾を示しており、それはつまり「広島=軍都」という見立ての矛盾も示してもいる。この本には、こうした「矛盾」を示す具体的な「モノ」がたくさん出てくるのが面白いところですよね。それこそアーティストの方たちがどう読むのか気になりました。
動乱の中で生まれたコミュニティ
──「〈平和都市〉の二分法」から脱却するために、この本では「都市論」という方法論を採用します。ここからはこの本で扱われる個別の事例を、都市論的な文脈で紹介しながら、だんだんと全体の理論的な道筋が見えてくるような進め方をしたいと思います。
まず取り上げたいのは〈原爆スラム〉という言葉です。この本は、とある路地が〈原爆スラム〉と「名づけ」られるプロセスを描き出しています。
仙波 まずは具体的なイメージを共有した方がいいと思います。わかりやすいのは、『仁義なき戦い』という映画シリーズの二作目、『仁義なき戦い 広島死闘篇』です。この映画は1972年ごろに撮影されました。終盤、基町地区というところにヤクザが逃げ込むシーンがあるのですが、そこで「広島・基町(通称 原爆スラム)」というテロップが流れます。河川敷に並んだバラック住宅群が遠景で映され、その奥では、基町高層アパートという集合住宅が建設されはじめています。
──昨年私が広島を訪ねた際、仙波さんに街を案内してもらいました。平和記念公園に行って、その足でまさにこの基町まで歩きました。『仁義なき戦い』に映っていたバラック住宅はもちろんもうありませんでしたが、あのシーンで建設途中だった基町高層アパートを訪ね、強く印象に残りました。とても巨大で、一般的なマンモス団地では比にならないスケールです。基町高層アパートがつくられる経緯はこの本にも書いてありますが、バラック住宅を撤去し、その住民を住まわせる口実で行政によって整備された。
さて、このようなイメージを共有したうえで、あらためて〈原爆スラム〉についてご説明いただけますか?
仙波 原爆を投下された広島には、文字通り何も残っていませんでした。戦中の「金属供出」もあって資材もない。まさに『仁義なき戦い』の一作目冒頭に描かれているように、混乱していました。だけど、生きていかなければならないから、みんな勝手にバラック小屋をつくり始める。ちょうど基町の辺りは軍事施設があったのですが、軍の解体もあって、ぽっかりとそこに土地が空いている。徐々に人が住み始める。お上がどうとか言っていられない状況なわけです。1950年代から60年代にかけて、最終的には1000戸くらいの住宅がそこを占めるようになりました。
「復興」という言葉はもともと「区画整理」を指す言葉です。原爆で街が破壊され、どこが誰の土地なのかわからなくなってしまった。そうした動乱のなかで、基町に街ができあがっていくわけですね。これが「相生通り」と呼ばれるようになります。
──この本を読んで印象的だったのは、相生通りに生まれた街のコミュニティの姿です。「スラム」と言ってしまうと、劣悪な住環境や、治安も荒廃したような様を思い浮かべてしまいますが、そこには豊かなコミュニティがあった。
仙波 もちろんコミュニティとしての豊かさだけで語れるわけではないのですが、たとえばそこでは暴力ばかりが蔓延っていた、というネガティヴな状況ではもちろんありませんでした。困った人に近所の人が米を差し出すとか、お隣さんから醤油を借りてくるとか、そういったサザエさん的なご近所付き合いは当然あったのだと思います。
こうして相生通りという街ができあがっていくのですが、それが1964年に〈原爆スラム〉という名前が与えられた頃から、一気に物語が動いていきます。
名づけるということ:〈原爆スラム〉をめぐって
──〈原爆スラム〉、そしてそのように「名づける」ということについて、この本では論じられています。ポイントは二つあるように思いました。一つ目は「社会問題」化についてです。まさにいま紹介してきたコミュニティというか、そこに人が生きているということが「社会問題」として構築されていく。二つ目は地理的な限定のプロセスです。定義上いわゆる「不良住宅」と呼ばれるものは広島のあちこちにあったのに、〈原爆スラム〉という名づけに前後して、基町相生通りだけの問題となる。このあたりの話を聞いてもいいですか?
仙波 〈原爆スラム〉という言葉が初めて使われた1964年当時、不良住宅は約6000戸あると言われていました。先ほど話した通り、相生通りにあった住宅の数は1000戸ですから、5000戸の差があります。それがどこにあったのかというと、河川敷です。広島は川の街と呼ばれることがあるのですが、三角州の中にあるので地盤がとても弱い。
そうした土地に建つ不良住宅を、1960年代になって行政が一掃していきます。そのときに使われた言葉が「剥ぐ」という言葉です。そこに住んでいる人たちを剥ぎ落としていくということです。その際には警察と住民の間で暴力的な衝突もありました。
──少し話が逸れるのですが、広島の平和記念公園は広大な土地を使って丹下健三がほぼ思い通りに空間を構成したわけですが、「相生通り」と同じように、そこにも人が住んでいて、公園のために住民たちを排除したわけですよね。それには衝撃を受けました。
仙波 平和記念公園は1954年に完成しますが、あのあたりのバラック住宅の除去が始まったのは1951年頃ですね。
一方、その平和記念公園のすぐ側にある「相生通り」、つまり〈原爆スラム〉に話を戻せば、1964年に〈原爆スラム〉という言葉をつくったのは任都栗司(にとぐり・つかさ)という当時の市議会議員で、まさに〈平和都市〉の根拠となった「広島平和記念都市建設法」の制定の旗振りをした人です。彼が〈原爆スラム〉と名づけることによって、相生通りが解決されるべき「社会問題」へと転化される。
その後、1967年に『中国新聞』に「原爆スラム」と題した特集が連載されるのですが、そこに掲載された地図上では相生通りだけが〈原爆スラム〉として図示されます。それによって、〈原爆スラム〉が「相生通り」という空間だけに焦点化され、人々の認識やイメージも「〈原爆スラム〉=相生通り」となっていく。
そして、〈平和都市〉を完成させるうえでの最後の解決課題が〈原爆スラム〉である、となっていきました。
──よく理解できないのですが、仮に〈原爆スラム〉が社会問題だったとして、どうしてそれを解決することが〈平和都市〉の完成につながるのですか?
仙波 突然そうした言葉が様々なメディアに踊り出すのです。もちろん行政にとって川沿いの住宅問題というのが長年の課題だったのは間違いありません。それがこの時期、〈平和都市〉に関連づけられるのと前後して一気呵成に住宅除去が進んでいく。
──行政はいまも昔も街を浄化しようとしますよね。現在で言うのならば「ジェントリフィケーション」と呼ぶのかもしれませんが、たとえばホームレスの人が寝ることができないようにと公園のベンチに細工したりする。動機は知りませんが、行政には一貫してそういう欲望がある。まさかとは思いますが、こうした街の浄化のためのロジックとして〈平和都市〉という言葉が使われた、ということでしょうか。
仙波 動機まではわからないのですが、方法論は完全に一緒ですよね。「広島平和記念都市建設法」は、〈平和都市〉という言葉を掲げることで広島の街を変えようとしました。だから〈原爆スラム〉という言葉をつくった。つまり、〈平和都市〉と〈原爆スラム〉は対になる言葉なのです。「平和/原爆」「都市/スラム」というかたちで完全に裏表になっている。
結局は住宅地区改良法のもとでの再開発が進められることとなります。その裏付け、つまりこの場所が不良住宅地区であることを示すためになされたのが、県・市の主導する「(社会)調査」でした。
──解決しなければならないという社会問題化が先にあって、それを裏付けるために社会調査がされるわけですね。
仙波 1960年代は、社会学者たちが広島に調査に入りだした時期でもあります。ある側面では、「病理」としての普遍的なスラム/住宅問題を、原爆という特殊な経験をした広島の地に見出していくわけですね。
──でもいくら調査で裏付けたとしても、都市というのは、他のどこの都市もそうであるように、他のどこの都市とも諸条件が異なるわけですよね。
仙波 まさにそうです。きわめて「特殊」なものときわめて「普遍」的なものとが絡み合っている。
──この本を貫いているテーマは、「特殊」と「普遍」の問題ですね。「特殊」というのは当然原爆投下のことで、それは無視できない。他方、「普遍」とは、都市が様々な力学で変わっていく、そのダイナミズムのことなんだと思います。〈原爆スラム〉の話がまさにそうですが、原爆が投下されても、それでも「都市」の力学はずっと生き続ける。
仙波 たとえば呉市の助役を務めた高良富子(こうら・とみこ)という人は、1946年に都市移転構想を提言します。広島市の再建ではなく、市の近辺に新しい土地を求め、都市自体を「捨象」してしまおうという発想です。高良にそう言わせるほど、たしかに破滅的な被害状況が広島にはありました。
他方で先ほども言及しましたが、当時の県知事・楠瀬常猪などは、「瀬戸内海大観光地帯のセンターポイント」構想などを打ち出します。しかし、なぜ、これほどの被害を受けてなお、近代的な都市機能を求めてしまうのか。それは普遍的なものともいえるのかもしれませんが、同時に、いわば凡庸でもある。なぜ原爆を落とされてもなお、ありきたりの普通の都市になろうとするのか。原爆ですら壊せなかった「都市」とはいったい何なのか。〈平和都市〉というのはきわめて特殊な状況から生じたスローガンだったはずですが、なぜそれがここまで普遍的な(陳腐な)機能を果たすものになってしまうのか、という問いがポイントになる気がします。
戦前と戦後を貫くパワーエリートたち
──少しパワーエリートの話をさせてください。都市の姿はパワーエリートの思惑だけでは決まらないのは当然ですが、しかし、簡単に無視できるものでもないと思います。そこで一度、行政官僚や政治家といったパワーエリートの欲望を整理しておきたい。
この本であきらかにされることの一つは、戦前と戦後の連続性です。戦前に行われた二つの博覧会と、戦後の〈平和都市〉への構想、これらが実は連続していることが論じられます。
仙波 1929年、広島で昭和産業博覧会が開かれます。ここでは近代都市としてのアイデンティティが模索されました。1920年代は世界的にも都市が拡大していく時期ですが、広島は都市として「遅れている」という自己認識のもと、その遅れを取り戻そうという企図から開催された博覧会です。これが「昭和博」と呼ばれるものです。
続いて1932年に行われたのが時局博覧会です。ここでは「軍都」としてのアイデンティティが希求されます。前年の1931年に満州事変が起き、鶴見俊輔が言うところの15年戦争が始まったタイミングでしたし、加えて軍人勅諭ができてからちょうど50周年でもあった。軍国主義化の急速に進んだ時期ですね。
時局博の内容も、当然といえばそうですが、やはりそうした風潮を存分に表している。なかでも異彩を放っていたのが航空ページェントです。当時、広島城の近くに西練兵場という広場があったのですが、そこに実際に戦闘機が飛んできて本当に機銃掃射をする。それを迎撃するところを観衆に見せたわけです。
──軍国少年にはたまらないアトラクションですよね。いずれにせよ、1929年の昭和博では近代都市としてのアイデンティティが模索され、1932年の時局博では軍都としてのアイデンティティが希求された。戦前に行われたこの二つの博覧会が、なぜ戦後の〈平和都市〉構想と連続するのでしょうか。
仙波 一番わかりやすいのは、まずアクターが同じだということです。企画者や関係者が同一人物だったりする。小野勝という当時の広島市職員がいるのですが、彼は戦前に昭和博と時局博に携わりました。戦後になると1947年に第1回平和祭の演出を担います。また1958年に行われた広島復興大博覧会が模したのが、1929年の昭和博でした。つまり、1929年から1958年のスパンで明確な1本の線が引ける。
戦前も戦後も博覧会ではその時々の最新テクノロジーが紹介されるわけですが、戦後の復興博で紹介されたのは「マジックハンド」です。つまり、原子力テクノロジーをどう制御し利用できるのかというわけですね。
──1945年に広島に原爆が落とされてわずか13年後、原爆と同じ原理を使った原子力テクノロジーを称賛する展示を広島でやったわけですね。ちょうど全国的に「原子力平和利用」のようなキャンペーンが進んでいた時期ですが、やはり驚きますよね。
いずれにせよ、戦前に言われた近代都市や軍国主義、戦後に言われた〈平和〉、そして原子力の平和利用などは政策イシューとしては志向するものもまったく違うはずなのに、どれも仕掛けていた人間や構造が同じだと。
仙波 そのためのロジックも反復していく。とても興味深く思います。
テクノクラートの行動原理
──なるほど。戦前と戦後の連続という意味では、東京の復興計画でもそうだったと聞いたことがあります。吉見俊哉さんが書かれた『東京復興ならず』(中公新書、2021年)という本に石川栄耀という都市計画家が紹介されています。石川は仙波さんの本でも言及されていますが、戦後、彼は「文化都市」を提唱し、どちらかというとリベラル派が好みそうなことを言っています。しかし戦前の石川は、日本のアジア侵略とセットで「皇国都市」というビジョンを掲げていたり、「精神高揚」といった発言をしたり、とても軍国主義的な側面を見せていたりもする。結局東京の復興計画において石川のプランは実現しなかったわけですが、広島の都市計画においては、戦前から戦後まで一貫して石川が影響を与えていた可能性が仙波さんの本で示唆されています。
仙波 いまの話に補足をすると、石川が軍国主義的な発想で都市計画を進めていた、と捉えるよりも、都市計画というプロジェクトの要素の一つとして「軍国主義」があったと考える方が正確な気がします。テクノクラートの問題系というのは、当人がどういった思想信条を抱いているのかは関係なく、まずは「つくる」ということが先んじるわけですね。これは、何かをつくるすべての人に関連する話だとも思いますが。
──なるほど、それは面白いですね。
仙波 それが、平和記念公園をつくった丹下健三にもつながります。平和記念公園の空間構成の一番の特徴は軸線構造です。原爆ドームと原爆慰霊碑を一直線に結び、その線が平和記念資料館と垂直に交わるように設計されている。これは「平和の工場」と呼ばれていて、平和記念公園を象徴するものです。しかし、この軸線構造の原型は戦前にあります。それは1942年に丹下がつくった「大東亜建設記念造営計画」というものです。「大東亜」という言葉が入っているので何やらキナ臭い感じがしますが、それもそのはずで、これは大東亜建設委員会が戦意高揚のために実施したコンペに提出されたプランでした。そのときに丹下は、東京から富士山を結ぶ軸線構造を提案したわけです。
──とんでもないスケールで軸線構造を構想したわけですね。
仙波 そうですね。井上章一さんという方が『戦時下日本の建築家──アート・キッチュ・ジャパネスク』(青土社、1987年)という本で書かれているのですが、戦前の「大東亜建設記念造営計画」での軸線構造が、あきらかに平和記念公園の構造に反復されている。
平和記念公園の軸線の延長線上に先ほどの〈原爆スラム〉、つまり「相生通り」もありました。一度とあるシンポジウムに参加した際に、基町小学校の小学生が自分たちの学校がこの軸線上にある、と壇上で唱和している場に遭遇したことがあります。「平和の軸線」は肯定的に評価されることもあるけども、やはり立ち止まって考えてしまう。
──「平和の軸線」と同じ発想で、戦前は正反対の考え方を具現化していた。
仙波 意味が着脱可能であるところに、やはり考えるべきところがあると思うんですよね。
丹下健三はなぜ平和塔を撤去したのか?
──この本のなかでは、先ほど触れた「平和塔」と丹下健三の関わりについても書かれています。
仙波 現在も毎年8月6日に平和記念式典が行われていますが、その原型になったのが、1947年に開催された「第1回平和祭」です。そのときにシンボルとして平和塔がつくられました。1ヶ月くらいの工期、つまり突貫工事でつくられます。ところが、それが1951年には早くも撤去される。
──その平和の塔に吊るされた平和の鐘、これが実は戦利品なんですよね。
仙波 軍からの払下げ品で、おそらく中国から奪ってきたものでした。当時は金属がなかったので、戦利品を使うほかなかった、とも言えますが。
──戦利品であったという事実はそれこそ「平和」という理念とは矛盾すると思うのですが、経緯はともあれ、その平和の塔(鐘)は市民からとても愛されたようですよね。ところが、それが数年で撤去されてしまった。その理由の一端が、丹下の意向ではないか、と仙波さんは示唆されていらっしゃいますね。
仙波 断定はしていないのですが、いろいろな状況を加味して考えるとそう推測します。平和の塔を快くは思っていないというコメントが丹下の論考から読み取れます。おそらく彼の「軸線」の構想において、平和の塔はそれを遮るものであったのではないか。
──仮にそうだとして、素人っぽい感想であえて言えば、「勝手」ですよね(笑)。でも、経緯がどうあれ、たとえば私が何も知らないまま観光客として平和記念公園を訪れたなら、その空間構成に触れることで「やっぱり丹下はすごいな」となってしまう。それが一つの広島の心象風景をつくっていることもまた真実ではある。
仙波 そうですね。ただ、その空間構成は1945年8月6日の出来事とは直接的に関わりを有するものであるとは言い切れない。そのうえ、平和記念公園の構造自体、もともと戦前の計画に由来があるわけで、では、この空間は何なのだろう、ということになりますよね。
「無垢な市民」というイメージの危なさ
── 一方で、これは広島に限った話ではありませんが、ただ無垢な市井の人々が、行政官僚や政治家のようなパワーエリートのグランドデザインのもと生かされている、といった構図も仙波さんは批判されていますね。
仙波 たとえば、女性史やジェンダー研究の文脈では、加納実紀代さんによる「〈銃後〉の女」批判があります。とりわけ戦後の表象において、女性は母であり女神であると一元的に表象されてきて、戦争において女性は被害者であると言われてきた。こうした論調を加納さんは批判します。
女性には加害責任がないと言い切れるのか。これはたとえば、若桑みどりさんによる「戦争援護集団」としての「チア・リーダー」のような女性(像)に対する議論、あるいは70年代から80年代にかけて、地域女性史研究の文脈における議論なども取り上げてきた問題です。母性のようなものを一方的に肯定することには、ジェンダー的な視点からは当然危うい面がある。たとえば戦前の廃娼運動においては、遊郭で働いている人・場所に病理を見出すような議論も人々のあいだにあったわけです。こうしたことを考えたときに、果たしていわゆる「市民」は総じて無垢であったのかと言えば、決してそうではない。
戦争への熱狂であったり、原子力政策に対するそれであったり、「市民」もきわめて無批判に国家の思惑に加担してしまった歴史的事実があります。たとえば2016年にオバマ米国大統領(当時)が広島を訪れるとなったら、「オバマは素晴らしい」みたいな話が一気にこの街へ広がっていく。もちろん批判的な論調もありましたが、全体としては肯定的なものが広がっていく。
──いまの話は無垢な市民像を前提とする危うさを指摘したものだと思います。そのイメージの先には一元的な「臣民」のような言葉が幻想として貼り付いてくる。でも、実際はそんなことはないんですよね。先ほどの「相生通り」の話にしても、おのおのが勝手に住みはじめて、その場所で様々に生きた人たちが、当たり前だけど皆違うことを考えながら都市をつくっている。
仙波 それを肯定するためにも、「パワーエリート」vs「(無垢な)市民」という構図をいったん留保しました。そうした理由は、多様であるということ、それをいかに擁護できるのか。そこに賭金があったのです。
キャッチコピーを超えて
──それはまさに現在、都市論の文脈でも議論されていることなんだと思います。本書では第2章で最新の都市理論が紹介されています。この章は例外的にやや難解なところがあり、十分には咀嚼できていないかもしれませんが、一つには、「パワーエリート」にせよ「市民」にせよ、そういった構成要素に分解しても都市は語れないということなのかな、と。そしてもう一つには、都市を一元的に表象することの不可能性も論じられているように思います。たとえば広島を語る際に、「8月6日」とか「原爆ドーム」とか、あるいは〈平和都市〉とか、そういった表象のみでは語ることができない。
仙波 たとえば、「クリエイティブ・シティ」という、半ばスローガン化しているような言葉があります。もともとはアメリカのリチャード・フロリダという都市社会・経済学者が提唱した概念で、2000年代に日本でも流行し、多くの自治体がこれにならって「創造都市」という言葉を掲げます。しかし実は、フロリダ自身がすでにクリエイティブ・シティの概念を撤回しかけているんですね。
日本の自治体はいまだに「創造都市」が云々と議論を続けていますが、「創造都市」を掲げながら、たとえばクィアの人たちに対する逆説的な抑圧や、あるいは「外国人労働者」への差別の問題などはまったく顧みられていない。この「創造都市」という言葉はそのまま〈平和都市〉と入れ替えることが可能かもしれない。
──「創造都市」に限らず、こうしたキャッチコピーは自治体や企業がつくるビジョンの中でこれみよがしに使われがちですよね。それで説明責任が果たせる、あるいは「果たせてしまう」という側面もあるのかもしれません。でも、最近の都市理論は、そういうシンプルな概念で都市は語ることができないという事をきちんと考えているんですよね。
私がこの本を読んで感銘を受けたのは、「理論」というものの奥深さです。「理論」と聞くと、現実を乱暴に抽象化して、繊細な機微のようなものが捨象されてしまうイメージを抱く人もいるかもしれません。でも、優れた理論家ほど、そんなシンプルな話はしない。理論化によって排除、あるいは単純化が生じてしまう危険性にももちろん気づいていて、理論自体がどんどん鍛えられている。シンプルに、「専門家って凄いな」とこの本で学んだ気がします。
仙波 自分のことを「理論家」や「専門家」と言うつもりは毛頭ありませんが、そんなに褒められるとむしろ「大丈夫かな?」という気持ちになってきますね(笑)。
「ありふれた」という言葉の意味、「札幌」という都市の断面
──最後に、仙波さんに伺いたい質問が二つあります。一つ目は、本のタイトルに使われている「ありふれた」という言葉の意味です。ともすれば、挑発的な言葉にも響きます。
仙波 元ネタは、ジェニファー・ロビンソンという都市理論家が提唱した”Ordinary Cities”という議論です。この” Ordinary”という言葉に「ありふれた」という訳語を自分は当てたわけです。
この言葉を書名に使おうと思ったのは、一つには、なぜ広島という特殊な経験をした街が、こんなにも「ありふれた」風景になりきってしまったのかということがあります。逆に言えば、先ほども触れましたが、〈平和都市〉を掲げる特殊な都市がなぜ「ありふれた」ものを求めてしまうのか。この問いを行ったり来たりするなかで、書名を決めました。
──二つ目の質問は、札幌についてです。今回のトークイベントは、「札幌で広島を考えるということ」というタイトルにしました。ほかにもいくつかタイトル案があったのですが、仙波さんには「札幌」という言葉は残してほしいと言われました。その意図を教えてくれませんか。
仙波 僕は札幌に来てまだ2年弱なのでわかっていることはそれほどないのですが……。札幌は近代都市としては新しい街ですが、そこから漏れでてしまう様々な痕跡や堆積ももちろんたくさんある。率直に言ってしまえば、札幌は間違いなくコロニアルな経験によってつくられた都市です。しかし、様々なアイヌの人々の歴史実践などがなされているにもかかわらず、この街にはどこか植民地主義の「当事者」ではないかのような意識を感じることもあります。テッサ・モリス=スズキの「連累 implication 」——過去の不正義に対する現在の自分の責任意識——の念が、ある意味で希薄なようにも見えます。
たしかに広島にも近しいところがある。たとえば被爆ナショナリズムという言葉があって、日本は唯一の被爆国と言われ、それを様々なかたちで引き受けようとする。そうした態度は悪い面ばかりではないとはいえ、「唯一の被爆国」なのかというと事実そうではない。第五福竜丸の被爆事件の際、水爆実験場近辺だったマーシャル諸島の人々が被った実害について問われることは多くはない。「当事者」であるというアイデンティティが、こうした実態と乖離してしまう。
こうしたなかでこの街を一体どのように考えられるのか、先ほど言及した「特殊性」と「普遍性」という問題を札幌で考えるとしたら、それは一体どのようなものになるのだろう、と考えたりします。
──「当事者」という概念は両義的ですよね。もちろん当事者運動によって様々な人が権利を獲得/恢復してきたし、それは社会を変革する大きな力を持つ。しかしその反面、不均衡な権力関係の中で割を食わされてしまっている人が、「当事者」という記号を背負わされ、乱暴に表象され、あまつさえ「当事者」としての役割を果たす負担まで求められてしまうこともある。そこには矛盾も感じます。前提として、立場の強い人間だって自分たちの「当事者性」、もっと言えば加害性を見つめなければならないと思いますが、むしろ仙波さんの本が示しているのは、「パワーエリート」や「被爆者」、あるいは「強者」と「弱者」という属性に収まりきらない、個別具体的な当事者性と経験が無数にあるということですよね。広島が掲げた〈平和都市〉という言葉のインパクトはやはり非常に大きいのだとしても、それを軸にして起こってきたことは、語られていない部分も含めて、まだたくさんある。様々な人やモノの連なりのなかでそれらを多面的に捉えていくこと。仙波さんが広島を対象にして書かれたように、それは札幌でもやれるだろうし、しかし、まだ書かれていない。
仙波 札幌を対象とした「都市論」は、必ずしも多くはないように見受けます。『東京の都市計画』(岩波新書、1991年)で著名な越澤明さんによる札幌の都市計画史などを拝読したことがありますが、都市研究として札幌を論じたものはあまり目にしたことがありません。さらには周知のとおり、沖縄にはコロニアリズム関連の研究がたくさんある。なぜ都市・札幌にはこうした(ポスト)コロニアル的知見からの研究が多くはないのでしょうか。
──都市を考えるというのは、ある意味では自分の存在の根拠を考えるということでもあると思います。そういう存在の根拠が、ぼんやりとしたまま、現在のところは受け入れられてしまっているということかもしれません。様々な矛盾やダイナミズムのなかで広島という都市を論じた本書は、札幌という都市を考えるうえでもヒントになるように思います。
ではそろそろ時間になりましたので、このあたりで締めくくろう思いますが、最後に何か仙波さんの方で言い足りなかったことなどあれば。
仙波 ぜひ、本を手に取っていただければと思います。本日は本当にありがとうございました。
【イベント開催のお知らせ】
2024年11月19日、下北沢の本屋B&Bさんで第3回目となる『ありふれた〈平和都市〉の解体』刊行記念イベントを開催します。
ゲストにアーティストの卯城竜太さん(Chim↑Pom from Smappa!Group)と松田修さんをお迎えし、本記事をさらに発展させた内容のトークが期待されます。
ご予約は以下URLからよろしくお願いします。
https://bookandbeer.com/event/bb20241119a/