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今回の記事は、中国・東北師範大学で教授を務める大田英昭さんによる、三宅芳夫さんの久しぶりの単著『ファシズムと冷戦のはざまで──戦後思想の胎動と形成 1930-1960』(東京大学出版会、2019年10月発売)の書評となります。
大田さんの冒頭の言に「現代世界のレジームはどのように形成されたのか、またそれは抵抗運動の影響をいかに受けながら再編されてきたのか…」とあるように、本書では「戦後思想」の「胎動と形成」をもたらしたものとして、
(1)ファシズムへの抵抗という「核心」
(2)「正統的マルクス主義」あるいは「共産主義運動」との微妙な距離
(3)世界空間を再編成した国際冷戦レジームに対する抵抗としての「中立主義」及び「第三世界」との連帯あるいは宗主国側の知識人としての脱植民地への支持
という「マクロなコンテクスト」が序章で描かれ、それを常に意識して書かれた(という)12の章から構成されています。
このコンテクストのもとで本書で取り上げられる思想家たちのテクストを読み直すことは、「混迷を極めた今日の世界を照らし出す上で、貴重な示唆を与えてくれる筈」であり(本書「あとがき」より)、「そのような歴史的展望を得ることなしに、将来の見通しについて的確に語ることはできない」(大田氏書評より)ということになるのでしょう。
実際、今日の日本のリベラル派の混迷状況において、「戦後思想」家、あるいは「戦後民主主義」の思想家たちの「原則」をあらためて辿り直すことは、たとえば、現在の BlackLivesMatter 運動について考える場合であっても、その底にある「「奴隷制」や「植民地支配」への断罪」という点において無関係ではありませんし、むしろ共振するためには欠かせない作業となるでしょう。
本書の印象深い記述として、
「明治憲法体制は「リベラリズム」とは連携可能であるが、「デモクラシー」とは相容れない。……戦後「民主主義」を戦後「自由主義」=「リベラリズム」とパラフレーズすることは不可能であることは改めて確認しておくべきだろう。
実際、語用論的な観点からしても、学界あるいはジャーナリズムにおいて「戦後自由主義」という概念は使用されていない。その意味では、社会の「無意識」は「戦後レジーム」の基軸が「自由主義」=「リベラリズム」ではなく、「民主主義」である、と「知っている」」(p.40-41)
とあり、大田さんの書評でも、
「今日戦後の「自由主義」的知識人の代表者とみなされることの多い丸山・加藤周一・久野収らが、いずれも資本主義に対する批判的意識を一貫して保持し、広義の「社会主義」を擁護していた事実を、私たちは押さえておくべきだろう。」
と分析されていますが、おそらくこのあたりに本書の、もっと言えば「三宅思想」の核心があるのかな、という気がします。
大田さん、このたびは誠にありがとうございました。