#BlackLivesMatter 運動とグローバルな廃絶に向けてのヴィジョンについて
──パトリス・カラーズへのインタビュー
聞き手・文:クリスティーナ・ヘザートン
訳:酒井隆史・市崎鈴夫
訳者まえがき
あらためて #BlackLivesMatter への注目が集まっている。
ここでは創設者のひとりであるパトリス・カラーズのインタビューを訳出し、その運動を担うひとびとがなにを考え、なにをめざしているのか、日本語圏でも共有していただければとおもう。
もともとこのインタビューは『惑星を取り締まる(ポリシング・ザ・プラネット)』と題された、ネオリベラル政策のもとで起きている、世界的な「過剰人口」への抑圧強化と警察機構の肥大を分析した論集のなかに掲載された(Christina Heatherton , #BlackLivesMatter and Global Visions of Abolition : An Interview with Patrisse Cullors, in Camp, J, T. and C.Heatherton, 2016, Policing the Planet:Why the Policing Crisis Led to Black Lives Matter, Verso)。
本書は、2014年、ミシガン州セントルイス郡ファーガソンで18歳のマイケル・ブラウンが警察に射殺された事件に端を発する反レイシズム運動のうねりのなかで編集された、それ自体重要な編著であり、「割れ窓理論」に集約される権力行使の図式がどのようにグローバルに拡大・浸透し、そして変形をみせているか、生々しく伝えている。
Covid-19パンデミックの渦中で起きた、黒人コミュニティでのアフリカ系青年への警官による殺害をきっかけに、再度巻き起こった警察暴力(ポリス・ブルタリティ)に対する大規模な抗議運動の流れは、ふたたび #BlackLivesMatter やそれを取り巻く新世代の運動、その作風、その要求に対する注目を惹きつけ、個別社会の課題との共通性を人びとに気づかせながら国際的連帯の機運をもたらしている。さらに重要なこととして、この惑星でいまなにが起きているのかという問いを世界の人びとに喚起させるきっかけとなっている。
このひとりの活動家のインタビューからは、課題を課題として引き受け、既存の制度すべてを根源から問い、変革への展望を手放さず、他者との遭遇に身を開き、そのなかでの困難や限界をみつめ、乗り越えていこうとする姿勢がみてとれる。
「廃絶主義(abolitionism)」について、少しふれておきたい。
abolitionismを辞書で調べると、大文字の表現としては奴隷制廃止運動としてあらわれる。小文字では「死刑や奴隷制度などの廃止論」である。abolitionないしabolitionismは、このような文脈では、奴隷制にかかわる制度の廃止の意味合いが強いが、その拡張した用法として、さまざまの制度にかんしても用いられる。
現代において、この用語はとくに、インタビューでも出てくる「監産複合体」(prison industrial complex、もちろん「軍産複合体」military-industrial complexの書き換えである)という鍵概念をもつ刑務所廃止運動のなかで現代的意味を帯び、さらに#BlackLivesMatter 世代が、以下のインタビューにみられるようなかたちで展開させている。
ここでは「廃絶論」「廃絶主義」と訳したが、近年、奴隷制といった語彙を冠せず、それ自体でさまざまな既存の諸制度の根本的廃絶といった文脈で、ひんぱんに使用されるこの語彙を、そのまま「廃止」「廃止主義」と日本語にすると、語感として弱い(そこに込められた廃止にむけた意志と特定の制度のない社会を展望するかまえが消えてしまう)ことをかんがみ、ここでは「廃絶」「廃絶主義」という日本語をあてている。
いずれにしても、訳者の理解の届かないところも多々ある。この訳文は、あくまでひとつの叩き台的試案である。ご指摘をお待ちしたい。
【追記】6月9日の本記事の公開後も訳者のFacebook等で有志から意見を募り、適宜訳文への修正を施してきた。また、6月15日には、以文社のツイッターへ鈴木みのり氏より「訳注」の不適切な語の使用へのご指摘を賜った〔6/16修正済〕。貴重なアドバイスをくださった皆さまにはこの場を借りて御礼申し上げたい。なお、今後も訳文・訳注への忌憚なきご意見を頂ければ幸いである(6月16日、訳者)。
2020年6月8日
酒井隆史(社会思想史)
市崎鈴夫(民衆史)
パトリス・カラーズ(Patrisse Cullors)は、アリシア・ガーザ(Alicia Garza)やオーパル・トメティ(Opal Tometi)とならんで、#BlackLivesMatter 運動の共同創設者であり共同ヴィジョナリー〔ヴィジョン提案者〕である。
この3人のクイアな黒人女性とともに、労働運動や移民の権利、そしてそれ以外の社会正義にかかわる運動のベテランたちが、ひとつの運動の「インフラ」を形成し、その運動は国際的に拡がりをみせた。
カラーズはまた、「ディグニティ・アンド・パワー・ナウ!(尊厳と力を今こそ!)」――ロサンゼルスを基盤とする運動組織で、収監された人々やそのコミュニティの諸権利のために闘う――の創設者でもあり、現在、エラ・ベイカー人権センターが行う「真実と再投資(※)へのキャンペーン」の監修責任者である。
※ 「再投資」とは、本インタビュー中でも説明されるように、社会資本を監視・処罰の強化ではなく、貧困と暴力に苦しむコミュニティに投資し直す意である。
ヘザートン:あなたの組織化の活動にとって、なぜ廃絶(abolition)の原理が中核を占めているのでしょうか?
カラーズ:実は、わたしたちの反-国家暴力の活動あるいは反-警察暴力(ポリス・ブルータリティ)の活動のなかで、廃絶についてひんぱんに議論をしているわけではありません。とはいえ、国家暴力にたいして、どこよりも活気があってクリエイティヴな様々な応答が、現在の #BlackLivesMatter 運動にはみられます。
もちろん、特別検察官の要求や加害者を起訴しろといった、古くからある議論を耳にすることもあります。しかし実際にはそういう議論はすべて、国家を物神化するものであって、この暴力にたいする応答プロセスにおいて国家の介入を拒む主張ではないですよね。だから、それよりもっと、はるかに視野の広い議論、つきつめていえば警察の廃絶をも視野に入れた議論が必要なのです。必要な介入はそこなのです。
#BlackLivesMatter 運動がそうした介入をうまくできてきたかどうかはわかりません。必要であるのは、わたしたちのコミュニティに、わたしたちの公共の安全にかんする明確なオルタナティヴ――すなわち数々のあたらしいヴィジョンであり、数々のあたらしいイマジネーション――をもたらしてくれる、ひとつの言説です。
ヘザートン:現在の言説が廃絶のテーマから切り離されていると、どうしてあなたはお考えなのでしょう? 廃絶を問うのに克服困難な障壁があるとなぜあなたはお考えなのでしょう?
カラーズ:たくさんの理由があります。わたしたちは警察国家に暮らしています。そこでは警察は、判事であり、陪審員であり、死刑執行人なのです。かれらはソーシャル・ワーカーになることもあります。かれらは臨床心理士になることもあります。こと黒人やラテン系の貧しい人びとの日常生活にかかわる問題となると、かれらはありとあらゆるものになるのです。かれらは困ったときのホットラインになります。かれらは期待の的になります。
大衆運動は「警察なんかいらない」ということを口にのぼせず、「どんなふうに警察改革するのか? どうやって一部の暴力警官にきちんと責任をとらせるのか?」といってばかりいます。しかし、議論の焦点は、「なぜ警察がそもそも存在しているのか?」という問いであるべきです。
そのような議論を重ねている人びとは、わたしたちのなかに多数いることはあきらかです。ですが、それは拡がりをみせてきませんでした。
そもそもなぜ警察は存在しているのでしょうか? その起源はどこにあるのか? わたしたちの多数が、そのもともとの任務が奴隷の監視であったことは理解しています。わたしたちの多数が、最初の保安局がメキシコとの国境監視の役割をはたしていたことを理解しています。
とはいえ、こういうことが広く一般の話題にのぼっているとはいえません。でもこれらのことは、警察がこの30年担ってきた役割とすべて関係しています。それはまた、黒人差別的レイシズムに根深いルーツをもっています。警察が不要であるという考えには、わたしたちは不安を感じますよね。「じゃあ、犯罪者をどうするんだ?」と。これは「黒人をどうするんだ?」とイコールなわけですが。
ヘザートン:こうした問いにどう応じますか?
カラーズ:わたしは、警察は廃絶すべきであると考えています。わたしの考えでは、警察はきわめて危険な存在ですし、これからもずっとそうだとおもいます。だからといって、警察の改革がありえないといっているわけではありません。
公共の安全についての定義を、仕事へのアクセス+安全で栄養ある食事+平穏な住まいが揃っていること、と位置づけ直そうということをわたしたちの運動に呼びかける、すばらしいキャンペーンがニューヨークではじまりました。
これはいいかえれば、社会的病理に警察力で応答するのではなく、コミュニティによって応答するというように、問題の枠組みを変えるということです。
ヘザートン:警察暴力に反対する運動が、同時に、仕事や住宅、身体にいい食事の確保のための運動としてもある。あなたのなかでは、それはどのようなヴィジョンをもった運動なのでしょうか?
カラーズ:この30年のあいだ、わたしたちのお金がどのように使われてきたかをみてみましょう。取り締まり、収監、監視の強化につぎこまれてきたのです。アンジェラ・デイヴィスが「監産複合体(刑務所産業複合体)prison industrial complex」1(訳注1)軍産複合体(military-industrial complex)に由来する用語で、米国におけるアフリカ系をはじめとするマイノリティ収監人口の膨張、それとあいまった「民営化[私有化]」による刑務所産業の発展といった文脈で、刑務所廃止運動のなかで提起された概念。と呼んできたものです。この言葉は、「クリティカル・レジスタンス」2(原注1)監産複合体の拡大に反対する全米の運動組織。によって普及しましたね。
わたしの考えでは、脱投資に力点をおく運動がひとつ必要です。つまり警察や刑務所、監視にお金をつぎ込むことから脱させて、貧困によって、また貧困の暴力というべきものによってもっとも直接に影響を受ける全コミュニティにお金をつぎ込み直すようにさせることです。
ヘザートン:あなたのいうような警察国家のなかで、組織化するということにはどういう意義があるでしょうか?
カラーズ:わたしたちの政治的行動が世界を変革するための理論に根をおろしていないとき、それは狭い議論におちいってしまうでしょう。わたしたちの政治的行動が大きなシステムの諸々の問題ではなく個々のアクターにのみ焦点をあわせるとき、それもまた射程の小さなものになってしまうでしょう。
もちろん短期的なところでいえば、わたしたちは目の前の危機に取り組まねばなりません。このことは重要です。わたしたちは、人びとの現実生活のいろんな問題を解決しなければならないし、どのような解決がよいかを人びとが自ら決定できるようにしなければなりません。しかしわたしたちはまた、いまあるヴィジョンよりもはるかに大きなヴィジョンを創造しなければならないのです。
ファーガソンに住むオーガナイザーのひとりと話をしたことがあります。彼女にわたしはこういいました。この作業はわたしたちのサイズをはるかに超えている、と。黒人大衆よりも大きいのです。もっといえば全人類をも超えています。これは惑星大の危機なのですから。
もしわたしたちがそれを解決しないなら、あるいは少なくともそれを解決するのに役立つシステムを構築できないなら、わたしたちが生き延びる道はたたれるでしょう。これはきわめて優先的な問題です。たしかにわたしたちは現状の改革を望んでいますし、人びとの生活の向上を望んでいます。しかしまた、これからの200年のうちに、人間が生き延びて、より健康でより包括的(ホーリスティク)なやり方で生活できているだろうか、それも知りたいのです。
ヘザートン:マスメディアは #BlackLivesMatter 運動を「リーダー不在の」運動とみなしています。ところがあなたは「リーダーだらけの」運動といっています。説明してもらませんか?
カラーズ:わたしたちの組織活動は、脱中心的で、多数のリーダーがいます。この組織活動は、治癒的司法(healing justice)3(訳注2)治療的司法と訳されるtherapeutic justiceもあるが、それは「刑事司法制度について犯罪を犯した人に対して「刑罰を与えるプロセス」と見るのではなく、犯罪を犯した人が抱える「問題の解決を導き、結果的に再犯防止のプロセス」と捉えようという考え方、すなわち治療法学(therapeutic jurisprudence)に基づく司法制度」(https://www.seijo.ac.jp/research/rctj/)といった定義がなされている。おそらく、ここでのhealing justiceは、さまざまのウェブ上での記事をみると、より政治的であるようだ。黒人コミュニティの経験に根ざした、長年の個人的・集団的暴力によるトラウマに対して、コミュニティによる解決をめざすのだが、それは、国家や司法制度によるハラスメントや暴力からの解放というヴィジョンとむすびついているように見受けられる。ただし、この点についての詳細は、いまのところ訳者の手にはあまる。ご教示いただければ幸いである。や廃絶の諸原則に根ざしたものです。この組織活動は、リスペクタビリティ政治(respectability politics、恥ずかしくない態度の政治)4(訳注3)『ディセント』誌の「リスペクタビリティ政治の上昇」と題された記事には、つぎのようにある。「黒人エリートが黒人貧困層の「悪い」特性を矯正することで「人種を高める」ために広めた哲学からはじまったものが、オバマの時代には黒人政治の特徴の一つへと展開をみせた。ほとんどのアメリカ人、とりわけ黒人アメリカ人にとって、格差の拡大と経済的流動性の低下が顕著な時代にあって、リスペクタビリティ政治はネオリベラリズムへの順応の媒介として機能している」(https://www.dissentmagazine.org/article/the-rise-of-respectability-politics)。を拒絶し、すべての黒人たちの生命/生活のための闘争を強化するものです。この組織活動は、黒人大衆や黒人大衆に連帯する人びとにとって長期的ヴィジョンがどのようなものでありうるのか、その展望に心底から根ざすものです。
ヘザートン:あなたはいま、エラ・ベイカー人権センターで働いていますね。「一個のハンバーガーよりもっと」という有名な論文がベイカーにはあります。そこで彼女は、学生非暴力調整委員会について考察をくわえながら、こう述べています。「自由を獲得する日が訪れるのは必然であるというこの感覚は、個人の自由への衝動に限界づけられていたわけではない……この運動は、「世界」の人種差別がはらむ諸々の道徳的問題にも関心をよせていたのである」。
いま #BlackLiveMatter 運動は国際的な拡がりをみせています。アメリカ合衆国における反レイシズムの闘争のもつ国際的意義についてお話していただけないでしょうか?
カラーズ:黒人差別のレイシズムによる苦しみはグローバルに及んでいます。合衆国の黒人大衆として、わたしたちの闘争は、「公民権[市民的諸権利]」獲得をめざす一国的闘争に限定されてはいません。このことは完全にそして絶対に必然的なのです。
むしろ、この運動は、北米大陸だけでなく地球全体を舞台とする、黒人ディアスポラのためのはるかに広範な闘いなのです。この議論について、そしてまたわたしたちの実践について国際的な枠組みで集中して取り組むことは、必要不可欠な課題なのです。もしわたしたちがこうした決定的に重要な対話をおこなわず、国際主義のもとで実践をおこなわないならば、すべての黒人たちの生にかかわる運動とはいえなくなります。
現実には、このアメリカ合衆国には、〔入国ビザやIDカードなどの〕さまざまの証明書をもたない黒人たちがいますし、黒人移民たちがいます。こうした黒人たちの生にかんする議論は、国際的なパースペクティヴや国際的な実践の形成にかかわる今述べたはるかに広範な議論にとって、決定的な課題です。
このあたりについて、わたしたちの内部でも十分に差別を克服しているとは正直いえません。合衆国への内向はとても強力なものですし、またひじょうに過敏な反応を呼ぶところでもあります。でもそれによって、アメリカ黒人たちはみずからをひとつのグローバルな運動の一翼とみなすことがむずかしくなるのです。
カナダのトロントには #BlackLivesMatter の支部があります。その人たちが全体の運動のなかで自分たち支部を位置づけているところを、わたしたちのほうではちょっと共有できていないように感じています。わたしたちのほうが視点の転換を必要としているのではと。わたしたちはもっともっとあらゆる差別を克服するための理論と実践の両方を、世界全体のすべての黒人たちの生をめぐって必要としているのです。
ヘザートン:#BlackLivesMatter トロントの運動のヴィジョンが異なっているとおっしゃいました。どう異なっているのでしょう?
カラーズ:#BlackLivesMatterトロント支部のことですね。その集会に参加したときの自分の体験としてお話しします。わたしはその時こんな感じでした。「わあ、トロントのみんなは、〔地元の黒人たちのためだけでなく〕わたしたち合衆国の黒人たちのためにも力をいれてくれている」。支部の人たちは、ここ、つまりアメリカ合衆国で亡くなった黒人たちが記されたプラカードを手にしていました。
ところがわたしたちは、トロントにおいてカナダ国家の暴力で亡くなった黒人たちについて、なにも知らないのです。なぜでしょう? なぜかくもわたしたちは、自国の黒人たちの生にのみ目を奪われてしまうのでしょう? なぜわたしたちは、地球全体の黒人たちの生について考えることをしていないのでしょう? わたしたちは自国の同胞が苦しんでいることは知っているのにです。
この問題はおそらく、アメリカ合衆国がとてもアメリカ合衆国中心主義的であることと関係しているとおもいます。わたしたちは積極的に、この語りかたから脱け出さなければなりません。この脱・合衆国中心主義の作業はこれまでも歴史的になされてきました。[ブラック]パンサー党は、国際的におどろくべき活動をおこないました。わたしたちもちょうど今、そのようなときなのだとおもいます。
ヘザートン:今年のはじめに、あなたは「ドリーム・ディフェンダーズ」5(訳注4)2012年2月にフロリダでヒスパニック系白人男性に射殺された17歳の高校生トレイボン・マーティンさん事件をきっかけとして、フロリダを拠点につくられたアクティヴィスト組織。が企画した各地からの代表団ツアーに参加して、パレスチナに行きましたね。#BlackLivesMatter 運動は現地でどのような反響でしたか? この旅が、帰国後のあなたの組織活動にどのような方向性をもたらしたでしょうか?
カラーズ:それはおそらく、わたしの人生のなかでももっとも深い意味をもった旅だったとおもいます。とても濃密でした。東エルサレムやラマッラーの街を歩き、ヨルダン川西岸地区のなかをずっと歩いてまわりました。一緒に歩いたパレスチナ人女性との会話をおもいだします。彼女が「どう感じますか?」と問いかけたとき、わたしはおもわず「刑務所を訪問したときとただただ同じ気分です」と答えてしまいました。
わたしはおもいます。パレスチナの人びとに、ちょうどマルコム[X]がかつてそうしたように、パンサー党員たちがかつてそうしたように、わたしたちもイスラエルによる占領に抵抗する闘いと連帯しているということ、そして #BlackLivesMatter 運動は、これだけはもう断じてイスラエル国家に加担したりしないんだということを、パレスチナの人びとにどうしても知らせねばならなかったのだな、と。それを示すことが、大切だったのです。
それにくわえて、先住民の人びととの強い連帯を黒人コミュニティに確立することも、きわめて重大な課題です。どれほど多くの黒人の人びとがかつて〔アフリカから〕追いたてられ、それで結局は自分たち以外の人びとの土地を占領するはめになってしまっているかを考えるならば、そうなのです。
いっぽう、パレスチナにかかわる諸々の議論は、ひじょうに二分法的です。つまり、パレスチナ人とイスラエル人だけしか出てきません。じっさい、わたしたちはツアーの中で、その地に住むすべての黒人たちについて議論できずに終わってしまいました6(訳注5)「ブラック・ジュー」と呼ばれるイスラエル内のエチオピア系の人びとや、移民の人びとなどを指すと思われる。なお目下のジョージ・フロイドさん事件に対しては正義を求める声明(https://www.blackjews.org/black-jews-in-israel-seek-justice-for-george-floyd/ )もある。――ねこ氏・片岡大右氏の示唆より。。そうした黒人たちがどのような厳しい状況に直面しているのか、そしてそうした黒人たちとパレスチナ人たちとのあいだに、占領に抗して闘うためのどのような連携が構築できるかの可能性についても、議論できずじまいでした。
ヘザートン:クイアの黒人女性のお三方の率いる運動で、運動の中心に、クイアやジェンダー・ノンコンフォーミング7(訳注6)既存の男/女のジェンダー規範に適合しない(したくない)人びとの意。、トランスの人びとが位置しているとはどのようなものでしょうか? こういった運動内の諸々のプロセスは、人びとが自由を想像し直すのをどのように助けるでしょうか?
カラーズ:もっとも周縁に置かれる人びとが実践や理論の中心に位置することではじめて、わたしたちはすべての黒人たちの生を救う力能を得るようになります。もっとも貧しい人びとが気にかけられてはじめて、あらゆる誰もが気にかけられるようになるのです。
女性は決して運動に関与したことがないなどという作り話を、わたしたちは一掃している最中です。現実には、これまでもずっと女性たちは運動の創設者でした。ただそのことが〔歴史から〕抹殺されてきただけです。わたしたちは、ともに決意しました。そんなことはこの世代には受け継がせまい、と。
自分のコミュニティを救うという行動のなかで、そのなかの誰かを見放すということはありえません。わたしたちの全員です。そうでなければなんの意味もありません。
とくに #BlackLivesMatter 運動とその三人の共同創設者から独自に出てきたことといえば、以上に述べたようなことを一貫して根拠としてしっかり据えて、わたしたちはこれくらい黒人トランス女性たちのために力をいれて闘いを前に進めているんだ、ということです。黒人トランス女性たちに対しては、もう何度も何度も、わたしたちのどのコミュニティからも冷たい拒絶の結界が張られてきました。わたしたち黒人の解放は、まずなんといっても黒人トランス女性たちや他の黒人トランスの人たちが解放されたときにはじめて実現するのです。わたしたちみんなが、なかでもとくにシスの黒人たち8(訳注7)シス=“こちら側の”という接頭辞から、出生時に振り分けられた性別と同じ性別で生きようとする人 / 女性 / 男性。「シス・ジェンダー」は「トランス・ジェンダー」の対義語として生まれた。が、このことをしっかりと理解するようにならなければならない。これは黒人みなの義務です。
ヘザートン:あなたのヴィジョンは、アンジェラ・(Y・)デイヴィスの〈廃絶のデモクラシー〉の定義ととても密接にむすびついていますね。そしてその〈廃絶のデモクラシー〉の定義は、排除を前提にもつ社会ではだれも自由ではありえないと論じたW・E・B・デュボイスから導きだされています。あなたにとって、廃絶主義社会とはどのようなものでしょうか?
カラーズ:廃絶主義社会は、資本に基礎をおいてはいません。資本主義システムと廃絶主義システムは両立するとはおもいません。廃絶主義社会は、なによりも先にコミュニティが必要とする物事に根ざしています。それはコミュニティ自身の自己決定を可能にするためのものであり、またその自己決定を支えるためのものなのです。それは、まさしく周縁のない社会です。それは、すべての生きた存在の相互依存とつながりに基礎づけられた社会です。尊厳に充ちた生き方、すなわち抑圧によってもっともひどい被害をうけた人びとの名を完全に歴史に刻み、いつ何どきもその名を称えることを忘れない生き方。そういう生き方にむかって背中を押す、強い意志をもった社会なのです。わたしの考えでは、廃絶主義社会は根っからスピリチュアルなのです。
注
1(訳注1)軍産複合体military-industrial complexに由来する用語で、米国におけるアフリカ系をはじめとするマイノリティ収監人口の膨張、それとあいまった「民営化[私有化]」による刑務所産業の発展といった文脈で、刑務所廃止運動のなかで提起された概念。
2(原注1)監産複合体の拡大に反対する全米の運動組織。
3(訳注2)治療的司法と訳されるtherapeutic justiceもあるが、それは「刑事司法制度について犯罪を犯した人に対して「刑罰を与えるプロセス」と見るのではなく、犯罪を犯した人が抱える「問題の解決を導き、結果的に再犯防止のプロセス」と捉えようという考え方、すなわち治療法学(therapeutic jurisprudence)に基づく司法制度」(https://www.seijo.ac.jp/research/rctj/)といった定義がなされている。おそらく、ここでのhealing justiceは、さまざまのウェブ上での記事をみると、より政治的であるようだ。黒人コミュニティの経験に根ざした、長年の個人的・集団的暴力によるトラウマに対して、コミュニティによる解決をめざすのだが、それは、国家や司法制度によるハラスメントや暴力からの解放というヴィジョンとむすびついているように見受けられる。ただし、この点についての詳細は、いまのところ訳者の手にはあまる。ご教示いただければ幸いである。
4(訳注3)『ディセント』誌の「リスペクタビリティ政治の上昇」と題された記事には、つぎのようにある。「黒人エリートが黒人貧困層の「悪い」特性を矯正することで「人種を高める」ために広めた哲学からはじまったものが、オバマの時代には黒人政治の特徴の一つへと展開をみせた。ほとんどのアメリカ人、とりわけ黒人アメリカ人にとって、格差の拡大と経済的流動性の低下が顕著な時代にあって、リスペクタビリティ政治はネオリベラリズムへの順応の媒介として機能している」(https://www.dissentmagazine.org/article/the-rise-of-respectability-politics)。
5(訳注4)2012年2月にフロリダでヒスパニック系白人男性に射殺された17歳の高校生トレイボン・マーティンさん事件をきっかけとして、フロリダを拠点につくられたアクティヴィスト組織。
6(訳注5)「ブラック・ジュー」と呼ばれるイスラエル内のエチオピア系の人びとや、移民の人びとなどを指すと思われる。なお目下のジョージ・フロイドさん事件に対しては正義を求める声明(https://www.blackjews.org/black-jews-in-israel-seek-justice-for-george-floyd/ )もある。――ねこ氏・片岡大右氏の示唆より。
7(訳注6)既存の男/女のジェンダー規範に適合しない(したくない)人びとの意。
8(訳注7)シス=“こちら側の”という接頭辞から、出生時に振り分けられた性別と同じ性別で生きようとする人 / 女性 / 男性。「シス・ジェンダー」は「トランス・ジェンダー」の対義語として生まれた。――ひっぴぃ♪/ ひびのまこと氏の示唆より。