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【連載/第4回_前編

誰がパリ五輪に抵抗しているのか ?

 

Qui luttent contre les Jeux Olympiques 2024 de Paris ?

 

 

佐々木夏子

 

 

NGO・市民団体・労働組合

 

 

1. 国際NGO

 
 2016年リオデジャネイロ五輪にまつわる、ブラジルの警察や軍隊の蛮行は広く知られている。ブラジル国外での周知に大きく貢献したのが、2016年6月にアムネスティ・インターナショナルが4言語(英仏西葡)で発表した報告書「大会に暴力はふさわしくない!(Violence has no place in these Games!)1(注1)https://www.amnesty.org/fr/documents/amr19/4088/2016/en/」だった。アムネスティによるこの仕事の重要性に疑問を挟む余地はない。しかし本稿の関心は「大会に暴力はふさわしくない!」というタイトルが「オリンピック大会=良きもの」という前提なくしては成立しえない、という点にある。
 
 そもそもアムネスティ・インターナショナルが介入するのは、「グローバルサウス」で開催されるオリンピックだけである。リオ大会の他には2014年ソチ大会、そして2008年および2022年の北京大会にまつわる不当逮捕、検閲、強制退去といった問題に熱心に取り組んでいる。そうした仕事自体は貴重なものである。しかしこのような介入を支える発想が「本来なら素晴らしいものであるはずのオリンピックが、人権を蹂躙することなどあってはならない」といったもので、オリンピックの構造的問題の批判でないことには深刻な帰結がもたらされる。
 
 「グローバルノース」で開催されるオリンピックにも不当逮捕、検閲、強制退去はつきものである。東京大会を例に挙げると、明治公園における野宿者強制排除や都営霞ヶ丘アパートの強制退去について、アムネスティ日本は何も発言していない。もちろん、ある日突然ファベーラにやってきた警官に撃ち殺されることと、告知を受けて住処を失うことを同列に語ることはできないだろう。だけど「グローバルノース」での大会にまつわる問題に目を閉じてしまうことは、「オリンピックは(大会により程度の差はあれ)不可避的に人権侵害を伴う」という認識の放棄につながってしまうのだ。
 
 アムネスティが「本来なら素晴らしいものであるはずのオリンピック」の例外として位置付け、介入したリオ大会の前後は、2024年夏季五輪の「招致レース」もとい「招致撤退レース」の時期にあたる。2015年7月にはボストンがいち早く招致撤回を決定した。本連載の「序」で述べた通り、この撤回劇は心あるボストン市議会議員や市役所員が招致計画を見直して、上から降ってきたわけではない。反対運動に時間と労力を割いた人々の、地道な努力の結実である。ここで注目したいのは、ボストンの招致反対運動が「ボストンではオリンピックをやってほしくない」といったNIMBYの発想ではなかった、ということだ。ボストンでの議論は公共支出の問題に特化していて、オリンピックがらみの開発で真っ先に不利益を被るのが社会的弱者であることへの関心が低かった、という点は確かに認められる。招致反対運動を担ったNo Boston Olympicsに影響を与えたスポーツ経済学者、アンドリュー・ジンバリストの目に、遠いファベーラの住民たちの姿が映ることはほとんどなかったかもしれない。それでもジンバリストやNo Boston Olympicsが展開したオリンピック反対論が「ボストンでさえなければどこでもいい」といった類の住民エゴとは無縁で、普遍的な射程を備えていたことは重要だろう。ジンバリストの議論は、どこで開催されようとオリンピックは必ず負債を公共化し利益を私有化する、という構造的な問題を指摘するものであって、「良いオリンピック」と「悪いオリンピック」がある、という考えを許すようなものではないのだ。
 
 2010年代半ばはまた、ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』で展開した「災害資本主義」の概念を使って、ジュールズ・ボイコフが「祝賀資本主義」の理論を展開するようになった時期でもある。オリンピックのようなメガイベントがもたらす高揚感には「ショック・ドクトリン」のような効果があり、通常であれば不可能な政策や建設計画を押し通す「例外状態」(ジョルジオ・アガンベン)が生み出される、というのが「祝賀資本主義」論の肝である。ボイコフが英語圏におけるオリンピック批判の代表的論客となるには、リオ五輪直前の『オリンピック秘史』(原題:Power Games)の出版を待たなくてはならないが、それ以前にCelebration Capitalism and the Olympic Games(Routledge、2013年)やActivism and the Olympics(Rutgers University Press、2014年)はすでに出版されていた。とりわけ「祝賀資本主義(Celebration Capitalism)」を書名に冠した本が、リオ五輪の三年前に世に出ていた、というのは重要であろう。この時期にはすでに、各論の寄せ集めにとどまらない原理原則的な優れたオリンピック批判が(英語が読めるなら、という条件はつくものの)誰でも手に取れるようになっていたのである。
 
 ボストンに続いて2024年大会の招致撤回に成功したハンブルグでも、「今日までオリンピックが開催されたありとあらゆる都市で家賃の高騰や立ち退き」が見られたのだから、ハンブルグにだって起こるに決まっている、というNIMBYのそれとは異なる議論をNOlympia Hamburgというグループが展開していた2(注2)https://www.nolympia-hamburg.de/。NOlympia Hamburgは2015年11月に招致撤回に成功し、目的を達成し(オリンピックが「自分ごと」でなくなっ)た後で、リオ五輪について声明を出している。そこでは「イベントの規模とIOCの利害」が問題のありかとされ、「大会を新たに発明しなおす」必要がある、と訴えられている3(注3)この声明は日本語に訳されている:https://hangorin.tumblr.com/post/。そしてボストンの招致撤回を受けて、米国オリンピック・パラリンピック委員会に立候補都市に指名され、28年大会の開催都市となるロサンゼルスには「良いオリンピックなんてものはない(there is no such thing as a good Olympics)」4(注4)以下のインタビューでこの表現が使用されている:https://www.vice.com/en/article/mgmgmv/meet-los-angeless-new-anti-olympics-movementと訴えるNOlympics LAというグループが生まれた。
 リオ大会前後には、こうした俯瞰的な視野を備えたオリンピック批判が、招致撤回という確実な成果を挙げていたのである。他方で、アムネスティインターナショナルのような巨大NGOが「本来なら素晴らしいものであるはずのオリンピック」との認識を手放すことなく、リオ五輪に批判的に介入した。この時期はもちろん、東京オリンピックの準備段階にもあたる。東京への招致決定前から活動していた「反五輪の会」や「オリンピック災害おことわり連絡会」といったグループが、ボストンやハンブルグに先立ち原理原則的なオリンピック批判を展開していた一方で、国立競技場やエンブレム問題、または荒唐無稽な「暑さ対策」が語られる際に、「(本来なら素晴らしいものであるはずの)オリンピック開催なんて、(無能な)日本には無理」といった言種が日本で目につくようになっていた。「日本」というふわっとした主語の代わりに、時の首相・政権や都知事、東京五輪組織委、電通を入れる批判においても、「本来なら素晴らしいものであるはずのオリンピック」そのものへの批判が不在である例は少なくなかった。もっと言えば、「本来なら素晴らしいものであるはずのオリンピック」に協力してしまったある時点(たとえば疫病発生)までの己の身振りの正当化のために、東京大会失敗の要因を日本国内のみに求める例も、もちろん(べらぼうに)ある。
 
 本連載でこれまでさんざん恨み言を述べたきた通り、24年大会開催都市に決まるパリでは普遍的・俯瞰的なオリンピック批判が、他の立候補都市や開催都市と比べて際立って弱かった。ボストンやハンブルグの招致撤回で何が語られたのかに関心を持つ人は、五輪招致に反対するグループ内部においてすらもほとんどいなかった。英語によるボイコフの論稿が活動家の手弁当でフランス語に翻訳されるには、2021年末まで待たなければならない(そして彼の著作の仏訳出版の見通しはいまだに立っていない)。私見では、フランスで五輪批判を弱めることにもっとも貢献しているのは「本来なら素晴らしいものであるはずのオリンピック」の例外として「グローバルサウス」や非白人国家での大会を位置付ける論理である。「イベントの規模とIOCの利害」への無関心と、「アテネや北京やソチやリオや東京ではダメだったけど、パリでなら良いオリンピックができるはず」という無根拠な自信。それらを支えるのはもちろんある種のレイシズムに他ならない。別の場所ですでに書いたことだが5(注5)佐々木夏子「パリ五輪の工事で潰された『守るべき菜園』」、『ふぇみん』3309号(2022年1月25日)「自分の家の裏庭(My Back Yard)」にできるオリンピックがらみの迷惑施設には徹底抗戦するが、五輪批判は断固として拒否するフランス人男性に、私は面と向かってこう言われたことさえあるのだ。「でもね、僕たちは日本人じゃないんだよ(Mais tu sais, nous on n’est pas japonais)」。
 
 アムネスティ・インターナショナル・フランス支部は、今日にいたるまでパリ五輪について不介入を貫いている。選手村建設にともなう数百名の移民労働者の強制退去はフランス国内でそこそこ報道されているけれど、それについて何一つ発言していない。パリ五輪との関連が法案説明文6(注6)https://www.assemblee-nationale.fr/dyn/15/textes/l15b3452_proposition-loiに明記され、大規模な反対デモが起きた治安関連法(Loi sécurité globale:2021年可決)についても、小指一本動かしていない。それでもアムネスティは堂々とオリンピックに協力しているわけではないので、「はるかにマシ」な方なのだ。
 
 パリ五輪には、アムネスティ・インターナショナルよりも知名度で勝る二つの巨大NGOのフランス支部が、招致段階から積極的に関与している。その二団体とは、世界自然保護基金(WWF)とユニセフである。
 
 WWFジャパンは、東京五輪の持続可能性について提言7(注7)https://www.wwf.or.jp/activities/statement/976.htmlや要請書(注8)8(注8)https://www.wwf.or.jp/activities/activity/4221.htmlを出したり、シンポジウムを開催9(注9)https://www.wwf.or.jp/activities/activity/1172.htmlしてはいるが、大会に直接協力することはなかった。それに対しWWFフランスは、早くも2016年5月に招致委員会とパートナー契約を締結している。この決定についてWWFフランスは「パリ五輪はこれまでの大会とは違う」ことを強調した。過去大会との違いをわかりやすく伝えるため、招致段階で関係者が頻繁に言及したのが「ロンドン大会比でCO2排出量を55%削減する」という約束だった。
 
 招致委員会とのパートナー契約締結時のWWFフランス会長は、イザベル・オティシエというヨットレーサー・作家・ジャーナリストである。2016年にWWFが発表したパリ五輪への提言書は、オティシェによる編集前記で始まっている:
 
2024年にパリで開催されるオリンピックとパラリンピック大会は、これまでの大会よりも少しだけグリーンになり、少しだけ炭素排出量が減り、少しだけ市民参加の度合いが高まるだけではないのです。この世界的イベントを考案する異なる方法を示して、一時代を画するのです。スポーツにおける優れた業績にとどまるのでなく、オリンピック大会を今世紀が要求するエコロジー転換の一環とするのです。私は、高レベルの元スポーツ選手として、そしてWWFフランス会長として、スポーツと環境の交差点に立ち会えることを大変嬉しく思っております10(注10)https://www.wwf.fr/sites/default/files/doc-2017-07/1612_paris_2024_recommandations_du_wwf.pdf
 
 色々言ってるが、WWFフランスがパリ五輪のパートナーとなったのは、会長職にある人物が元スポーツ選手だから、に尽きるのではないか。WWFジャパンも東京五輪については寝ぼけた発言を多数残しているが、さすがに全面協力とまではならなかったのは、単に当時の会長とスポーツの縁が薄かったためではないか。憶測での立論ではあるが、この手の非政府組織の人事や意思決定には外部のチェックがほとんど入らないため、株式会社や政党などと比べてもトップの人間が好き勝手やれる余地が高いのは周知の事実であろう(たとえば国際オリンピック委員会がそうだ)。
 
WWFフランスのウェブサイトより。左:招致委員長トニー・エスタンゲ。中:WWFフランス会長、イザベル・オティシエ。
 
 
 ともかくパリ五輪が「WWFお墨付き」となったことで、東京大会までとはレベルの異なる怒涛のグリーンウォッシングが展開されるようになった。組織委員会にいたってはプレスリリース内で「カーボンニュートラル」とまで口走りだす始末である11(注11)https://presse.paris2024.org/assets/paris-2024-communique-de-presse-conseil-dadministration-pdf-c906-e0190.html?dl=1。そこに「我々はフランス人なのだから、アテネや北京やソチやリオや東京と一緒にするな」というレイシズムを加わえることに躊躇を覚えないのなら、五輪推進派には大した理論武装も必要とならない。「悪いオリンピック」は東京大会までの話であってパリ五輪はこれまでとは違う、の一点張りで済んでしまうし、実際に済ませている。事実、組織委の「気候・環境参画マネージャー(Climate and Environmental Engagement Manager)」のポストにあるアマデア・コスツレバは、筆者他との面談の終わりに「東京とパリ大会は違うんです」と、これまた日本人の身体性を隠しようもない筆者の面前で発言している12(注12)2022年3月1日、パリ五輪組織委(46 Rue Proudhon, 93210 Saint-Denis)におけるSaccage 2024コレクティブと組織委職員との面談。
 
 パリ五輪の招致に協力したもう一つの重要な国際NGOがユニセフである。こちらはWWFとは違って「戦略的パートナー」契約までは締結しておらず、組織委(およびその他団体)と共同での教育プログラム開発程度の関与に留まっている。しかしIOCが公式ウェブサイトで「パリ2024は、WWFフランス、ユヌス・センター、ユニセフ・フランスの支援を受け、国連の持続可能な開発目標に沿った独自の持続可能性とレガシー戦略を策定」13(注13)https://olympics.com/ja/olympic-games/paris-2024と記載できるようになったことは、後述するパリ五輪がらみの開発を原因とする、サン=ドニ市プレイエル地区の学校周辺の環境闘争に大きな影響を与えることになる。ちなみにパリ五輪への協力を決定した時点でのユニセフ・フランス支部の会長は、「ディスラプション/破壊理論」の提唱で有名なTWBAワールドワイドという広告代理店の社長、ジャン=マリー・ドリューであった。
 
 
 
 

2. フランスの環境団体

 

 世界的に有名な国際NGOのフランス支部よりも、フランス国内の市民団体の方がフランスの世論や動員や政策決定への影響力を持っている。以下駆け足で、パリ五輪に介入した三つの環境団体の活動と発言を見ていく。

 

2-1. フランス・自然・環境(France Nature Environnement:FNE)

 フランス・自然・環境(France Nature Environnement、以下FNE)は47人の専従活動家を抱える、フランス有数の規模を誇る環境団体である。FNEのウェブサイトによると14(注14)https://fne.asso.fr/organisation、9087のアフィリエイト団体、46の加盟団体の連合(fédération)という、ピラミッド型の組織となっている。

 FNEはパリ五輪招致委員会と協議を重ねており、IOCがパリを訪問した際にも会合を持っている。ただしWWFフランスとは大きく異なり、パリ五輪の組織・運営を「警戒している(vigilant)」ことを強調している。2017年9月13日にリマ(ペルー)のIOC総会で2024年大会と2028年大会の開催都市が決定した翌日、FNEは「エコロジー転換のためのオリンピックを目指して」と題されたプレスリリースを発表した。そこにはこう書かれている:

 

とはいえ現時点でFNEは、開催決定に先立つ大規模な市民との協議がなかったことを不満に思っている。いくつかの過去大会の総括も記憶しており、当初掲げられた環境への取り組みが守られるよう、FNEは最大限の警戒を呼びかける。オリンピックには予算超過もつきものだが、パリ大会で予算が超過する場合、関係する地域および住民のニーズに悪影響を与えることがあってはならない15(注15)https://fne.asso.fr/communique-presse/pour-des-jeux-olympiques-au-service-de-la-transition-ecologique

 

 「開催決定に先立つ大規模な市民との協議がなかった」とは、要は開催の是非を問う住民投票が実施されなかった、ということである。こんなに短いパラグラフで、民主主義的原則の無視、環境破壊、予算超過という大問題を三つも指摘しているのだから「オリンピックなんかやるな」という結論にたどり着いても良さそうなものであるが、そうはならないのだ。代わりにこのプレスリリースの末尾には「このオリンピックのために、FNEは環境および社会的配慮の視点から、革新的なソリューションの提案とプロモーションを行う力となる」という一文が置かれるのである。

 FNEがオリンピックに関して何か発言するのは、問題点の指摘に限られる。たとえば2017年末にオリンピック関連法(LOI n° 2018-202 du 26 mars 2018 relative à l’organisation des jeux Olympiques et Paralympiques de 2024)が可決された際には、条文の改訂を求めるなどかなり具体的な批判を展開している16(注16)https://fne-idf.fr/publications/avis-et-contributions/hold-up-sur-le-debat-citoyen-et-les-espaces-publics。その際、WWFフランスのように「スポーツの価値云々」といったことは特に言わない。そのため、これだけ問題点を指摘しておきながらなぜパリ五輪開催自体に疑問を挟まないのか、その根拠が薄弱となってしまう。

 「現状のオリンピックを正面から礼賛」するわけではないFNEは、「初期設定においては批判的であ」る、と言えよう。しかし2017年9月に「招致活動が終わ」ると「事実上後戻りできないと結論づけて、むしろそれまでかかった投資をどのようにすれば『資本貴族』たちの手から奪うことができるのかを提案することで、言わばオリンピックの換骨奪胎を目指す」17(注17)本パラグラフにおける括弧内の字句は、すべて以下からの引用である。小笠原博毅・山本敦久編『反東京オリンピック宣言』小笠原博毅「反東京オリンピック宣言ーあとがきにかえて」航思社、2016年、p.253。のである。

 しかし「オリンピックをやらない」という選択肢はFNEにはない。招致委員会と協議を重ねてきたことからもわかるように、FNEは早い段階で、パリ五輪開催を前提に過去大会とは異なる「エコロジー転換のためのオリンピック」の実現を目指してきたのである。ここには見出されるのは、神戸大学の小笠原博毅が炙り出した「どうせやるなら派」の典型的な身振りに他ならない。そして小笠原が幾度も指摘してきたように、オリンピックによる民主主義的原則の無視、環境破壊、予算超過を批判し、オルタナティブを提示しながら「オリンピックをやらない」という選択肢を排除するものこそが、現代オリンピックの延命にもっとも貢献しているのである。

 後述するパリ五輪にまつわる数々の環境破壊が広く報道されるようになると、FNEがパリ五輪に言及することはほとんどなくなっていく。「どうせやるなら派」であることの危うさに気づいたのかもしれない。もしそうであるなら、オルタナティブを提示する=グリーンウォッシングを施すことで、オリンピックの延命に貢献してきた己の身振りの総括も必要となるだろう。

 

2-2. アルテルナティバ(Alternatiba)

 アルテルナティバは、フランス南西部バスク地方を発祥とする気候変動に取り組む運動体である。そのスローガンは「気候ではなくシステムを変えよう」。2015年のパリ協定の頃には自転車ツアーによるアピールを主な活動としていて、団体のロゴもサイクリストとなっている。気候変動に関して何をどうするのか、具体的なことは何も言わないため手短な紹介が難しい団体である。しかしこの具体性のなさこそが、広く認められているアルテルナティバの特徴と言えるかもしれない。

 具体性がなくふわってしてる(「システム」って?)からこそ人が集まる、という側面は確かにある。パリ10区にあるアルテルナティバの活動拠点、La baseはいつも大賑わいだった(2022年6月に閉鎖)。ここではバーとイベントスペースが同じ空間となっていて、酒場としては大成功していた。私も時にスピーカー、時に聴衆としてLa baseで開かれたイベントに何度か参加したことがあるけど、熱心な聴衆の少ないことにかけては他のイベントスペースの追従を一切許さない場であった。これほど徹底的に、正面切って「お前の話なんてどうでもいい、俺たちは楽しく酒を飲みたいだけだ」という態度を取られる機会は、そうそう与えられるものではない。

 アルテルナティバが具体的な対象を相手とする闘争を自前で立ち上げることはほとんどない。けれども、誰かが立ち上げた闘争に手を貸すことはよくある。2020年初頭、つまりコロナウイルスがヨーロッパを襲う直前に、アルテルナティバの専従「市民動員担当者(Chargée de mobilisation citoyenne)」が、オリンピック関連施設への反対運動に介入を始めた。この「市民動員担当者」は介入当初から「オリンピックをやらない」という選択肢はキッパリと、断固として排除していた。この時期にパリ五輪に関連するさまざまな環境破壊が始まりつつあったので、彼女も「それまでかかった投資をどのようにすれば『資本貴族』たちの手から奪うことができるのかを提案することで、言わばオリンピックの換骨奪胎を目指」したのである。

 しかしもちろん、コロナによって「市民動員担当者」の介入はあっという間に暗礁に乗り上げる。2020年夏にコロナが小康状態となってから、アルテルナティバ上層部による介入停止の決定を伝える「上からのお知らせ」メールを件の「市民動員担当者」が転送してきて、本人からのメッセージはそれ以降一言もないまま彼女の介入は唐突に終わった。

 それから約一年後の2021年春、オリンピック練習用プール建設で破壊されることになるオーベルヴィリエ市の労働者菜園で占拠闘争が始まった。フランスで盛んな「守るべき土地(Zone à défendre=ZAD)」をもじって「守るべき菜園(Jardins à défendre=JAD)」が宣言されると、アルテルナティバのメンバーもちらほら姿を見せ、時には会議で発言するようにもなった。もちろんJADは万人に開かれているので、アルテルナティバのメンバーがJADに来ることは想定内であり、かつおおむね歓迎されていた。アルテルナティバに違和感を覚える「JAD住民=ジャディスト」たちは少なくなかったと思うが、異なる政治思想・感性の共存(およびその困難)は、JADにおける当初からの大きな課題であったため、アルテルナティバだけが特別どうこうということにはならなかったはずである(対して、大統領予備選挙に立候補した元環境大臣、デルフィーヌ・バトがJADを訪問した際には、さすがにJADの会議で大問題となった)。

 そして2021年9月2日に機動隊とブルドーザーがやってきて、JADの占拠闘争は終わりを迎えた(その後も継続された裁判闘争による「部分的勝利」については、本連載次回で取り上げる予定である)。その日の夕方、オーベルヴィリエ市庁舎前で緊急抗議集会が開かれた。闘争に深く関与していた人々がほんの数名、時に涙を浮かべ声を詰まらせながら発言した後、集まった人たちが自由に発言するフリースピーチの時間となった。真っ先にマイクを求めて前へ進んだのは、夏に入ってからJADに姿を見せるようになっていた、60代くらいと思しきアルテルナティバのメンバーの女性だった。

 JADの闘争に多大な時間とエネルギーを費やしてきた人々に先んじてマイクを握った彼女は、自分はアルテルナティバのメンバーである、との自己紹介から始めた。そのあとすぐに「この菜園の破壊はオリンピックのせいではない」とはっきり述べたのである。責任を問われるべきはオーベルヴィリエ市長をはじめとする政治家たちであって「平和の祭典」ではない、と。私はこの女性がそういう考えの持ち主であることは知っていたので、耳を疑ったわけではなかった。しかしオリンピックそのものの批判を展開する人々がJADに集っていたことは彼女も知っていたはずである。だから真っ先にマイクを握り、こうした形でその日の集会のトーンを定めようとしたことが、意図的な挑発や牽制なのか、それとも単なる無神経なのか判断できず、私は混乱した。

 市庁舎前での集会の間、私は猛烈に苛立っていた。その場にいた「ジャディスト」たちと話すと、JADでの活動にそれほど関与してこなかった政党や市民団体メンバーなどが次々とマイクを握ったことについての反感が強く、話の内容にはほぼ無関心だった。私は律儀に耳を傾けてしまったばかりに、苛立ってフリーラジカルを大量に生みだしていた。

 アルテルナティバはオリンピックだけでなく、各方面で煮えきれない態度を取ることで悪名が高い。しかしそのプレゼンスおよび活動資源が大きいため、「アルテルナティバをどう扱うか」という争点が、フランスの環境・気候運動の現場でしばしば浮上してしまう(そしてこの問題に活動家たちはエネルギーを消費してしまう)。「色々問題はあるけれど、力を貸してくれるから関係を悪化させたくない」という考えが優勢になれば、アルテルナティバの煮えきらない態度に対する運動内の態度は煮えきらないものとなる。

 しかし煮え切らない態度がつねに支配的となるわけではない。フランス大統領選挙の一ヶ月前にあたる2022年3月12日、気候変動へのさらなる政府介入を求める大規模なデモ(フランス全土で8万人、パリで3万2000人)が行われたのだが、このオーガナイズの中心となったのがアルテルナティバであった。デモの名称は「Look Up!」で、もちろんレオナルド・ディカプリオ主演のNetflix映画への言及である。

 そして3月上旬に「政府が何もしないことなど、Netflixに教わるまでもなく知っているはずだ」と指摘し、デモの趣旨を真っ向から批判するテクストが複数のメディアに掲載された。以下は同テクストからの抜粋である:

 

「気候運動(mouvement climat)」の担い手を自称する人々は、スローガンの発明に長けているが、かつて使用されたスローガン(たとえば「世界の終末と、給与振り込み前の月末は、同じ闘いだ」)はもう流行らなくなっている。そこで今度は「Look Up」と来たが、こうしたスローガンはいつも同じ問題を抱えている。敵が誰で、どのように戦うのかがサッパリわからないのだ。(…)イル=ド=フランスにおける生態系破壊の責任者は、その名を知られている。(…)たとえばパリ市長のアンヌ・イダルゴは、アルテルナティバの本部を訪問し、その闘争への支援を表明したことがある。けれどもそのイダルゴはオリンピック会場建設公社(SOLIDEO)の社長であり、首都圏自治体間連合のメトロポール・デュ・グラン・パリの副議長なのだ。そして多くの人が知る通り、メトロポール・デュ・グラン・パリとオリンピックは、イル=ド=フランスでもっとも強力なコンクリート流し込みマシーンである。(…)アンヌ・イダルゴに反対しよう。オリンピックに反対しよう。グラン・パリとその轍に生まれるあらゆるものに反対しよう18(注18)https://blogs.mediapart.fr/les-invites-de-mediapart/blog/030322/mouvement-climat-n-avons-nous-rien-appris

 

 そしてこのテクストにはNon aux JO(オリンピックに反対)やSaccage 2024といったパリ五輪に反対するグループも署名者として名を連ねた。これを受けて、アルテルナティバがオリンピックをはっきりと批判するようになった、というような展開は今日に至るまで見られていない。

 

2-3. 環境闘争の全国運動(Mouvement National de Lutte pour l’Environnement:MNLE)

 環境闘争の全国運動(Mouvement National de Lutte pour l’Environnement、以下MNLE)は、フランス共産党との繋がりが深い環境団体である。そしてフランス共産党と繋がりが深いということは、オリンピックに反対することなど絶対にない、ということである(本連載第一回参照)。

 フランス国内のあらゆる環境団体が一丸となってオリンピックに反対していれば、そもそもパリに五輪など招致されないだろう。FNEやアルテルナティバのように煮え切らない態度の団体もあれば、MNLEのように共産党の五輪推進プロパガンダをほぼそのまま繰り返す団体もあること自体は、別に不思議ではない。けれどもMNLEのようなオリンピックそのものには親和的な団体が、パリ五輪関連施設に反対する局地的な闘争を積極的に担うようになると、話はだいぶややこしくなってくる。

 MNLEが積極的に介入するようになった闘争は、セーヌ=サン=ドニ県立のレール・デ・ヴァン(L’aire des Vents)公園を一部私有化して作られるメディア村への反対である。メディア村はパリ五輪期間中にジャーナリストの宿泊施設となったあと、エッフェル塔を遠くから望める高級住宅として売り出されることになっている。2020年夏まで、メディア村に反対する運動の担い手は公園の利用者や近隣住民たちの非公式なコレクティブだった(本稿「後編」で詳述)。EUが定める自然保護区域(NATURA 2000)に指定されているジョルジュ・ヴァルボン県立公園に隣接するレール・デ・ヴァン公園は、前者とともに生態系回廊(corridor écologique)を形成している、だから破壊してはいけない、と反対運動は主張してきたのである。「公園のカエルや鳥を乱開発から守れ!」と。そこにMNLEという、それほど大きいわけではないがフランス各地に支部を持つ歴史ある団体が加わるようになって、裁判闘争といった資金力を必要とする闘争が可能となったのだ。

 MNLEのセーヌ=サン=ドニ県支部、MNLE 93が2018年3月10日付でメディア村協議整備区域(ZAC)19(注19)ZAC=Zone d’Aménagement Concertéは民主主義的な協議を必要とする都市計画区域のことである。オリンピック関連法第9条は、ZAC協議の電子化を定めている。の公開協議(consultation publique)に書面で意見を提出したのが、確認できる最初の介入である20(注20)https://www.mnle.fr/avis-du-mnle-93-sur-la-creation-de-zac-cluster-des-medias/。それから2年後、2020年5月28日にはセーヌ=サン=ドニ県支部ではなく、MNLE全国ネットワークの名義で「メディア村を止めよう!」21(注21)https://www.mnle.fr/stoppons-le-cluster-des-medias-exigeons-le-maintien-de-laire-des-vents-communique-du-mnle-national-reseau-homme-et-nature/という声明を発表している。この声明ではアテネ、北京、リオの三大会が否定的に参照され「巨費を投じて建設されたオリンピック関連施設が放棄されるようになった」と述べられている。けれども、開催国の土建屋やデベロッパーに金が回ってGDPを押し上げでもしないならば、そもそもオリンピックをやろうなんて思う政治家はいない、という構造的な問題把握は行われていない。代わりに強調されるのが「IOCはジャーナリストのための恒久施設を必要としていない」ということだ(「パリには十分な数のホテルがあるのだから不要なのではないか」とのIOC関係者の発言を、日刊紙『ル・パリジャン』が2018年3月14日に報じている22(注22)https://www.leparisien.fr/sports/JO/paris-2024/jeux-olympiques-2024-le-comite-d-organisation-planche-avec-l-etat-14-03-2018-7607094.php)。そして2015年のCOP21のように「仮設住宅を建設すればいい」という具体的な代案を出すのだった。

 そしてMNLE 93は公園利用者のコレクティブやその他の環境団体とともに、2020年12月28日にセーヌ=サン=ドニ県相手に工事中止の仮処分を求めた。2021年2月に下りた裁判所の決定は訴えの却下であったが、同年4月にはパリ行政控訴裁判所が工事中断を命令。転じて7月には同裁判所が工事許可を出した。以後、メディア村の建設工事は着々と進んでいる。

フランス国外からのゲストを交えて、2022年5月22日にレール・デ・ヴァン公園で行われた「有毒ツアー」の模様。メディア村建設は急ピッチで進んでいる。(撮影:筆者)

 

 この間、この裁判闘争はフランスのマスメディアにしばしば取り上げられ、MNLE 93の会長であるジャン=マリ・バティが特権的な取材対象となった。フランス共産党ロワシー地区の会計担当を務めていたバティは、取材のたびに「私たち(nousあるいはon)」という主語を用いて、「オリンピックに反対ではない」と執拗に念を押したのである。「私たちにとって、オリンピックが問題だったことは一度もありません。問題は、不動産開発のためにオリンピックを使うそのやり方なのです」23 (注23)https://www.francetvinfo.fr/les-jeux-olympiques/tokyo-2020/jo-2024-la-justice-suspend-en-refere-les-travaux-du-village-des-medias-en-seine-saint-denis_4450185.html
とフランス通信社(AFP)相手に語ったかと思えば、「私たちはオリンピックにも、インフラ建設にも反対ではなく、仮設インフラを望んでいるのです」24(注24)https://www.lejdd.fr/JDD-Paris/le-village-des-medias-des-jo-2024-au-coeur-dune-bataille-judiciaire-4048476とまで具体的に踏み込むこともあった。

 「オリンピックそのものは悪くない」というバティの持論が繰り返しマスメディアで表明されたことは、MNLE 93の内部で議論になった、と伝え聞いている。運動組織内部でのこうしたミクロポリティクスの分析は、他日に期することにしたい。

 
 
著者紹介

佐々木夏子(ささき なつこ)

翻訳業。2007年よりフランス在住。立教大学大学院文学研究科博士前期課程修了。訳書にエリザベス・ラッシュ『海がやってくる――気候変動によってアメリカ沿岸部では何が起きているのか』(河出書房新社、2021年)、共訳書にデヴィッド・グレーバー『負債論――貨幣と暴力の5000年』(以文社、2016年)など。