21世紀初頭のフランスで、黒(アナキズム/自律主義)と緑(エコロジー)が混ざってZADが生まれた。元々ZADとは、長期整備区域と日本語に訳される「Zone d’aménagement différé」という行政用語の略語である。ノートル=ダム=デ=ランドの空港計画反対者たちはこの略語を流用するかたちで、「守るべき土地」という意味になる「Zone à défendre」という新語を生み出した。現在、ラルース仏語辞典(電子版)で「ZAD」と引くと出てくるのは、長期整備区域ではなく「守るべき土地」の説明の方であり、用語のレベルでもすでに逆転している。簡潔にして要を得た説明になっているので、ここにそのまま訳出しよう:
不要で、巨額の費用がかかり、環境および地元の住民にとって有害となる可能性があると考えられる整備計画に反対するため、活動家たちによって占拠される空間。農村部にあることが多い。(この語法は、長期整備区域[Zone à aménagement différé]の略語ZADの流用である)。
要は占拠闘争が行われないのにZADを名乗ることは「できない」のだ。これにはノートル=ダム=デ=ランドの空港建設計画反対運動が、占拠戦術を明言した時にZADを称するようになった、という歴史的経緯がかかわっている。建設予定地・近辺の農家を中心とし、ノートル=ダム=デ=ランドの空港建設反対運動が「空港の影響を受ける農家を守る会(Association de défense des exploitants concernés par l’aéroport)」を結成したのは1972年のことである。その後、数十年にわたる反対運動を経た2008年、「抵抗する住民たち(habitant·es qui résistent )」の名義で「長期整備区域(Zone à aménagement différé)」の占拠を訴える呼びかけが発表される。翌2009年(COP15の年だ)にフランス初の「気候アクションキャンプ(Camp for Climate Action)」11(注11)「カウンターサミット」に範をとって2006年にイギリスで開始したキャンプ。2010年まで続いた。がノートル=ダム=デ=ランドで開かれ、参加者の一部が前年の呼びかけに応えて同地に住み続けることを決めた。フランス初の「ZAD = 守るべき土地(Zone à défendre)」がこうして誕生した。
スクウォットの延長にあるZADの占拠戦術は、戦闘性の高い、ほぼ全生活を闘争にコミットさせる構成員がいなければ実行不可能である。つまり占拠戦術の採用で闘争の強度は一気に高まる。実は都市部に近いZADでは「たまに来て寝泊まりする」というゆるいコミットメントも可能だが、ノートル=ダム=デ=ランドの「ザディスト」たちの生活はそんな悠長なものではない。ここのZADの自律性の強度を支えたのは、そこで営まれる生産生活である。パン、牛乳、卵、野菜、薬草から住居、倉庫、図書室にラジオ、ウェブサイト、書物まで。資本や国家からの自律の実践、あるいはそこまで辿り着くのはなかなか難しくても、そのような指向がZADをZADたらしめている。デヴィッド・グレーバーはチアパスのサパティスタ民族解放やロジャヴァの民主的連邦主義とノートル=ダム=デ=ランドのZADを比較して「ずっと小規模な経験ではあるが、ヨーロッパのど真ん中でも自律的空間を生みだせることを教えてくれた」12(注12)David Graeber, ‘Préface’ dans Jade Lindgaard (dir.), Éloge des mauvaises herbes, Les liens qui libèrent, 2018, p.12 と述べている。
同サイトの「建設地図(carte des ouvrages)」のページを見てみよう。地図の中の点は大会会場(緑)、練習施設(黄)、インフラ(青)、整備工事(赤)に色分けされている。その内、大会会場となる緑色の点はわずか9であり、4つの区分の中で最小となっている。他の内訳は練習施設が18、インフラが20、整備工事が13である。本連載第4回で詳述したプレイエル地区高速道路インターチェンジ(IC)はインフラ、メディア村は整備工事に分類されている。パリ五輪組織委が「会場の95%が既存施設」と繰り返す時、大会会場に分類されない黄・青・赤に色分けされた計49件の工事は含まれていないのである。
次に、この地図の黄色で表されている「練習施設」を見てみよう。その中でも3000万ユーロと予算規模が大きいのが、パリ郊外「オーベルヴィリエ城塞アクアティックセンター」である。オリンピック会場となるサン=ドニ市のオリンピックアクアティックセンターほどではないものの、地域住民のための一般的な水泳施設よりもはるかに大がかりなものであり、将来的に採算の取れない白い巨像となる可能性は高い。そしてその建設のため、オーベルヴィリエ市とパンタン市にまたがる労働者菜園の一部が破壊されるため、パリ五輪関連工事の中で最大の反対運動が起こった。そこでZADの戦術が採用され、オーベルヴィリエの労働者菜園防衛闘争は「守るべき菜園(Jardins à défendre)」を略してJADと称するようになったのである。
3.
見方を変えれば、2020年にオーベルヴィリエで菜園破壊に反対する運動が起こるまで、「あらゆる場所にZADを!」の声がパリ五輪に向かうことはなかった、ということである。ペルーで開かれた第131回IOC総会で、24年大会の開催都市にパリが選ばれたのは2017年9月であった。ノートル=ダム=デ=ランドの空港建設計画の中止が発表されるのはその半年後の2018年1月で、つまりパリ五輪の招致活動はZADがもっとも盛り上がっている時期に進められていたのである。ZADの盛り上がりとともにフランスで急速に普及した概念に「不要かつ押し付けられた大規模計画(Grand Projet Inutile et Imposé)」というものがあり、GPIIと略される。ノートル=ダム=デ=ランドに建設が計画された空港がその典型であるわけだが、この概念はあらゆる無駄な公共工事に適用可能である。コペンハーゲンのCOP15での国際的動員が何の成果も出さなかったあと、フランスのエコロジストたちはいま自分のいる場所で姿の見える具体的な敵と戦う方針にどんどん舵を切っていった。グローバルな指向はこの時期急速に求心力を失い、GPIIに対する「地域闘争(luttes locales)」の磁場が人々を引き寄せるようになったのだ。「あらゆる場所にZADを!」を合言葉に。
オリンピックがGPIIの温床であることの説明は不要であろう。しかしフランスの政治動員が地域闘争へと向かう中、この二つはなかなか結びつかなかった。まったく接点がなかった、と書いては嘘になるので、先述のゴネスのEuropaCity反対運動とパリ五輪反対グループの間にあった連帯について記しておきたい。本連載第3回で言及した『2024年パリ五輪:奇跡か蜃気楼か?(Paris JO 2024 : miracle ou mirage ?)』という本への、ゴネスでの運動の主導者、ベルナール・ルーの寄稿はその表れである。オリンピックをGPIIと捉える視点は、招致段階から確かに存在していた。しかしある時期まではきわめて限定的だった。
転機はコロナウイルスが猛威を振るう最中に訪れる。2020年夏にロックダウンが徐々に解除され「コロナ以前の世界」の回帰が見えてきた頃、地域闘争の同時多発行動を起こそうという呼びかけがノートル=ダム=デ=ランドから発せられた。第二次世界大戦中にナチスへの抵抗を訴えた呼びかけにちなみ6月17日という日付が選ばれ、「世界の再汚染に抗う行動(agir contre la réintoxication du monde)」を名乗る同時行動の「第一波」となった。この日フランス各地で、50以上のデモ、集会、工事現場の妨害などが行われた。
つまり戦術のラディカリズム(=占拠)とコンポジシオンのラディカリズムの間に発生する正のフィードバックによって、ラディカルな主張(=オリンピック廃止)も受け入れられるようになる、という単純な話である。JADが始まる前、「菜園さえそのままにしてくれるなら、オリンピックなんてどうでもいい」とある菜園利用者が私に言ったことがある。仮にこうした主張が「指令語(mot d’ordre)」として強制されていたなら、おそらくJADは不可能だっただろう。そしてそれはそっくりそのまま、メディア村建設予定地にZADができなかった理由ともなっている。ノートル=ダム=デ=ランドのZADがそうであったように、JADは「意見の異なる人々が相互に依存しているコレクティブ」21(注21)Jade Lindgaard, ‘Introduction : Pour la ZAD et tous ses mondes’, dans Jade Lindgaard (dir.), Éloge des mauvaises herbes, Les liens qui libèrent, 2018, p.24. であった。対してメディア村反対運動では、オーガナイザーの意に反する横断幕を持ち込めば激しく非難された。ZADのような自律主義的戦術を生むコンポジシオンもあれば、そうでないものもある。
イタリアではアルプスの麓ピエモンテ州に、アルプス山脈を穿ち57km(!)に及ぶトンネルを貫通させ、州都トリノとフランスのリヨンを高速鉄道で結ぼうという「不要かつ押し付けられた大規模計画」が1990年代から存在している。田中角栄もビックリのこの無謀なGPIIには、90年代からスーザ渓谷の住民が反対していた。シンプルにNO TAV(高速鉄道反対)と称するこの運動はその後、「人里離れた山岳地帯から、イタリアにおけるここ数年の政治的異議申し立てのテンポを決定づけ」22(注22)不可視委員会『われわれの友へ』HAPAX訳、夜光社、2016年、p.19122るまでに成長する。La Mauvaise Trouveを名乗るフランスのコレクティブによる『二里物語:ノートル=ダム=デ=ランドのZADとスーザ渓谷のNO TAV闘争の交錯する歴史(Contrées : Histoires croisées de la zad de Notre-Dame-des-Landes et de la lutte No TAV dans le Val Susa)』23(注23)http://www.lyber-eclat.net/livres/contrees/と題された年代記によれば、トリノの政治運動とスーザ渓谷での反対運動が結びついたのは1999年から2001年にかけてのことである。しかし2006年トリノ冬季五輪会場の80%がスーザ渓谷だったため、この時期イタリア政府は「オリンピック休戦」を必要とし、工事計画は停滞した。そのためNO TAV運動がイタリア全土に広がり、フランスにまで届くようになるのは2000年代半ばとなる。
La Mauvaise Troupeによる力作年代記が示すとおり、フランスとイタリアの地域闘争の間の風通しはすこぶる良い。パリの2年後にミラノで冬季五輪が開かれるのに、フランスとイタリアの五輪反対派の間で連帯が生まれないと考える方がよっぽど難しいだろう。確かにノートル=ダム=デ=ランドとスーザ渓谷の間で見られたような、持続的な深い交流がパリとミラノの反五輪勢力の間に生まれることはなかった。けれどもパリ五輪の前に短期集中的にエネルギーが混ざり合って、大きな火花が散る可能性は決して小さくない。