【韓国現代思想と運動の諸断面/第1回】
2010年以降の韓国フェミニズム運動が浮き彫りにした男性権力共同体
影本剛
この連載の目的と対象
私は、2010年から2020年まで約10年ほど韓国で暮らしたが、「韓国」を主語にして何かを訳知り顔で語れるほどの知識があるわけではない。しかし、日本語で流通する韓国論にはまだまだ語られていないことが数多くあることを知っている。それらを一つひとつ私の知っている範囲で議論してみることが本連載の目的だ。
私は大学院生という身分をもって韓国で暮らし、いわゆる「韓国文化」に隅々まで触れたわけでもない。また友人に李明博や朴槿恵(元大統領)の支持者はいない。そして友人に文在寅に投票した人はいるが、支持者といえるまでの人はいない。私が韓国で過ごした時期に大統領を歴任した李明博や朴槿恵に投票した人と深く知り合う機会がなかったという点では、私の知る韓国がいかに狭く一面的であるかがわかる。
しかし俯瞰的な韓国論や、それを通して作り上げられる日韓比較論、また国境の両側を本質化するような論法は、その国境によって抑圧される人々の姿を見えなくさせるし、所与の政治経済的条件である国境を前提にした思考方法では、その抑圧の再生産を批判できない。
なので、私は韓国を知る人から見ればマイナーで「偏った」議論を展開してみたいわけであるが、強いてそうする理由は、私や友人たち、そして友人になりうる人々との関係を解きほぐすために、韓国の社会運動的文脈から投げかけられた問いに取り組みたいからだ。そのために私は自分自身がこれから生きる上で参照になるであろう韓国で起きた議論を日本語で論じることで問いを組みなおし、たたき台になるような議論を投げかけたいと思う。
注目したいのは、思想と運動が分離不可能になる点である。社会運動と思想的展開はそもそも分離できないが、その分離できない地点を抱え込んで書かれたテクストを中心に、韓国でいかなる議論がなされているのかを見ていきたい。つまり新聞記事的な要約ではなく、そこからもう一歩踏み込んで、論者たちの主観的判断や介入的言説を読んでいくということだ。
とはいえ、その方法は幾分古典的なものとなるかもしれない。つまり、私は現在、韓国を離れ日本に住んでいるため、当然韓国の社会運動に参与しておらず、本稿の情報源は韓国で出版された思想と運動が絡まったいくつかの書籍が中心となる。ジャーナリストや研究者たちのように当事者にインタビューをするわけでもなく、書籍等を中心に自分なりに議論をしなおす試みになることをお断りしておく。
今回は、2009年から2015年にかけてフェミニズムに対する社会的関心がほとんどなかった時期を経て(クォンキム・ヒョンヨン、2019b、9頁)、現在では活発な関心を集めている2010年代後半以降の韓国フェミニズムについて検討してみたい。
1.江南(カンナム)駅女性殺人事件をいかに名指すか?――個別事件ではなく権力関係を見ること
2016年5月17日午前1時に起こった江南駅付近の女性殺人事件が、韓国のフェミニズム運動の再起動(リブート)に大きな影響を果たしたことはすでに知られている。
警察はこの事件を精神疾患者の妄想による通り魔殺人と見定め、それとは別の文脈から事件を見た人々は女性嫌悪殺人であると直観した。よって、この事件を「通り魔殺人」と語ることは警察の言語で語ること同義である。またその命名は、警察が同じような犯罪防止のために精神疾患者に対する治安活動を強化すると発表したように、障害者嫌悪を助長するものでもある。
日本でも2020年8月に福岡のショッピングセンターで女性が男性に殺された事件や、2020年11月に東京で路上生活をしていた女性が近隣男性によって殺害された事件があった。これらの事件が仮に現在の韓国で生じていたとすれば、もはや「通り魔殺人」という規定は困難であったかもしれない。こうした事件を突発的な「通り魔事件」と規定するとき、それは社会全体にはびこる女性差別という文脈の中で事件を見ることを阻止する。
言い換えると「通り魔殺人」という呼称は、事件を「一部の人の事件」として認識させる効果を発揮するのだ。キムホン・ミリは「殺人の性別性に対する集団的覚醒と、殺人にジェンダーはないという集団的忘却は同時に起こる」と端的に指摘する(キムホン・ミリ、2019、271頁)。
江南駅女性殺人事件後に、人々が現場の最寄り駅の出口に集まり抗議に立ち上がった点について以下のような言及がある。
当時〔駅の出口を埋め尽くした〕ポストイットに書かれた言葉はコミュニケーション行為としての言葉というよりは、自分がいまここ(江南駅)にいたという証拠としての言葉であり、「私は生きていて、あなたは死んだ」という状況をアイロニーとして経験する言葉だ。〔中略〕じっさい、江南駅10番出口は、遺族が体験した喪失を哀悼する場所ではなかった。「私でもありえた」という衝撃を受けた者たちが集まり、哀悼と怒りを引き継いでいった(クォンキム・ヒョンヨン、2018b、64‐65頁)。
当初、人々は「弔い」や「哀悼」のためだけに集まったのではなく、「私でもありうる」という衝撃を動機に集まったのだ、と。そしてこれまで「通り魔殺人」であると処理されてきた事件、あるいは「〇〇女」という規定で女性個人の問題にされてしまった事件が無数にあることを問題提起し、声を上げないことにはこの事件もまた「通り魔殺人」として処理されてしまうことへの強い危惧が、多くの人々をこうした抗議行動へと走らせた。
ちなみに、本稿における「女性嫌悪」の意味は、「女性を嫌うことではなく、女性がただ男性の性的対象としてのみ意味のある存在として扱われる他者化のこと」というクォンキム・ヒョンヨンの概念設定から借りている(クォンキム・ヒョンヨン、2020、31頁)。
「女性嫌悪」という観点から事件を見ようとした人々がいた反面、男性中心的な主流社会はこの事件を「通り魔殺人」として、つまり「女性嫌悪殺人ではない」と語ろうとした。
じっさい5.17フェミサイド(江南駅女性殺人事件)は特別なことではない。3日に1人の女性が、男性パートナーあるいは前パートナーに殺害される大韓民国の現実と異なる文脈の上に置かれているわけでもない。明白な女性嫌悪暴力事件において性別を消そうとすることもまたまったく新しくない。性別が暴力の中核であることが明らかになれば、私たちの社会がこれと闘うために、介入せねばならないのは家父長制という根深い支配体制それ自体になる。あまりに複雑なことであるのみならず、その制度の中で恵沢を受けてきた男性に省察と賛同を要請することになる。これを認知した男性たちはそのシステムを維持してきた張本人になるがゆえに苦痛に陥る。「私は違う、私を潜在的犯罪者扱いしないでくれ」という男性たちの要求は、それゆえ登場する。これが女性嫌悪犯罪であってはならない(と男性たちが反応した)より核心的な理由は、その命名を通してようやくはじめて体制の共犯者であった女性たちが覚醒し、問題解決の主体になったからだ。(ソン・ヒジョン、2020、133‐135 頁の内容を再構成)
このように、「通り魔殺人」と規定するか「女性嫌悪殺人」と規定するかは、フェミニズムが実践してきた言いなおし(Relabeling)の闘いとも連関する。たとえば「隠しカメラ」を「デジタル性犯罪」と言いなおし、「隠しカメラによる作品」を「犯罪」と正確に言いなおすことをはじめとする認識の転換である。
この転換により、出来事をいかなる歴史的射程の上で見るのかが変わる。そして、これらの試みを単に「新しい動き」として脱歴史化させるのではなく、韓国における「慰安婦」問題の解決をめざす運動の蓄積と関連させてみることもまた、必要である。
たとえば後述するキム・ジウンにとって元「慰安婦」被害女性である故・キム・ボクトン(金福童)さんが他地域の戦時性暴力生存者のために連帯した活動は、一歩踏み出すことに恐怖を感じていたキム・ジウンに差し出された手のようだったと述べている(キム・ジウン、2020、314~5頁)。このように、「慰安婦」被害者に寄り添う運動が反性暴力運動の一つの参照例になっている点は看過できない。
以上のような点から、事件を「女性嫌悪殺人」と命名することは、事件を個人の問題に還元したり障害者差別を助長することですぐさま社会を回復させようとすることを拒否し、社会に張り巡らされている家父長制を問題化していく視点をつくり出す運動性を持つ。
2.アン・ヒジョン(安煕正)による秘書に対する性暴力事件と男性たちの連帯
アン・ヒジョンは1965年生まれの政治家で忠清南道の道知事を務めた。彼は道知事であっただけではなく、政権与党におけるポスト文在寅(次期大統領候補者)として、将来より深く関わるであろうさまざまな権力と絡み合っており、単なる個人を超えた存在である。
そのアン・ヒジョンが2018年に随行秘書に対する性暴力で告発され、「威力による姦淫罪」で起訴された。そして2019年9月9日、大法院(最高裁)で懲役3年6か月の有罪判決が確定した。その後2020年に被害者キム・ジウンによる『キム・ジウンです』という書籍が刊行される。この本に沿っていくつか議論をしてみたい。
キム・ジウンは朴槿恵退陣後に行われた民主党内での大統領候補予備選挙(文在寅が当選)の頃からアン・ヒジョン陣営で働くようになり、2017年から最側近で働く随行秘書を務めた。アンの名刺や携帯電話を管理するだけでなく、アン知事夫婦が私的な場での飲酒後に代理運転をさせられるなど、公務以外の使い走りも担わされ、その過程で性暴力を受けた。キム・ジウンが述べるアンの権力使用の姿を引用しよう。
被告人〔アン・ヒジョン〕は自分が持っている権力が、自分の存在がいかなる威力を持っているのかを誰よりもよく知っていた人です。それを通して、欲しいもの、自分が望むものを持つ人であり、自分がしたいことをすべて行う人です。被告人は次期大統領として仰がれる威勢と力を利用して、弱くて若い人々の労働を搾取し、性も搾取し、魂まで破壊しました。じっさいに彼の犯行を受けた被害者たちは、被告人の下にいた職員であると同時に弱者で、被告人の力に対抗できない位置にありました。被告人は誰よりもその位階序列をよく知っていて、それを利用してきたのです。(キム・ジウン、2020、350頁)
2018年初頭の韓国では、検事や大物詩人など社会的地位のある人々に対するMeToo告発が引き続きなされていた時期だった。アン・ヒジョンはキム・ジウンを呼び出し、MeTooをしないという確約をさせてから(つまり「黙っている」いう言質をとってから)MeToo支持宣言をした。
キム・ジウンはアンの随行秘書として、大統領官邸や国家情報院との連絡を中継する立場にあり、次期大統領候補であるアンの権力ネットワークを熟知していた。だから司法機関を通して告発をする場合、申告の受付をすることになる人々はアンと関係のある人々の部下にあたるので(キム・ジウン、2020、113頁)、存在を消されるかも知れないという恐れから、2018年3月5日、JTBC放送局の生放送ニュース番組に登壇して被害を告発した(放送前にはアン側に情報が洩れ、アン側の人から連絡が来たという)。そこでキム・ジウンは以下のような発言をした。
じっさいに私がきょう午後にでも消されるかも知れないと思い、だから私の安全を保障できるのが放送だと考えて、この方法を通して国民たちが私を守ってくださればと思って、少しでも守ってくださればと思って、真実が明らかにされるように助けていただければと思います。(キム・ジウン、2020、43 頁)
キム・ジウンは自分を秘書に任命したアン・ヒジョンが知事職を3月6日に辞任するとともに失職をするなかで裁判に臨んだ。
裁判所が検察によるアンの拘束令状を二度にわたり拒否するなか、とうとう4月11日にアンが起訴された。裁判は、被告人・アンやアン側の弁護士と縁故のある裁判官を避けるために、なかなか開始されなかった(一審、二審、三審すべてで二度以上再変更がなされた)。アン側の弁護士にはソウル高裁裁判所長と政治公職者倫理委員会委員長を歴任した人物や、地方裁判所部長判事を歴任した人物も含まれていた。担当裁判部の変更による「繰り返される猶予がアン・ヒジョンの威力を証明するようであった」とキム・ジウンは述べる(キム・ジウン、2020、147頁)。三審まで持っていく体力と裁判の時間を支配することもアン側の戦略であったといえよう。
アン・ヒジョン側は裁判の場で、アンとキム・ジウンの関係は「権力関係ではなく不倫関係」というフレーム化を徹底的に動員した。アン側には記者出身でこのようなストーリー制作に長けた人もいたし、大統領選挙予備選挙における世論戦略などの経験が動員された。「女房秘書」という表現まで用いられ、キム・ジウンを労働者として認識することは一切なかった。それは性暴力に至るような労働環境、つまり使用者が労働者を自由に所有できるというめちゃくちゃな労働環境自体を問わないことでもあった。
アンが法的に「無罪」になれば利益を得る巨大な男性連帯集団が存在し、彼らは道義的にはアウトだが法的にはセーフという「不倫」というフレーム化のためにありとあらゆる手段を動員した(「不倫」という用語が含意する、「不」ではない「正常」な倫理とは、異性愛家族制度を「正常」化し「自然」化する認識論であり、「不倫」は常にカッコ付で表記されるべきだというオ・ヘジン[2019、297頁]の指摘も付記しておく)。
また、キム・ジウン側の証人に立った男性に対しては「キム・ジウンの恋人」というフレームをかぶせ攻撃した。労働と人権の問題を全て「不倫」で縫い合わせることで、法的責任を無化しようとしたのだ。アンの妻が果たした役割はそのフレーム化を世論的に強化するものだった。
アン・ヒジョン事件の場合、夫が性暴力の容疑者である場合、家族の登場、とりわけ妻の役割について多くのことを考えさせられた。じっさい多くの場合、男性パートナーが性暴力犯罪で法廷に立つとき、母、妻、恋人などは女性の立場ではなく性役割の担当者として、その加害者との関係のなかで自身をアイデンティファイする。アン・ヒジョンの妻は判事の制裁を受けるほど過剰な介入をし、事件の本質を歪曲した。先に述べたとおりに、男性が性暴力容疑者になったとき、パートナー(妻、恋人……)の役割はかなり重要だ。この場合ほど「男性」が「女性」を効果的に利用する場合もまれだろう。この問題は加害容疑者の無罪証明になるからというよりは、マスコミの素材になるからだ。加害者のパートナーが登場する瞬間から、事件は犯罪ではなくゴシップになり、被害者の人権より家族の価値が強調される。ヒラリー・クリントンのように、夫より「もっと賢い女性」が出てきて問題を解決する。このとき加害者の妻は「女性の包容性、良妻賢母の忍耐心、家父長制家族の守護者(社会の守護者)」として認識され、相対的に被害女性はその反対の価値を体現した女性になってしまう。(チョン・ヒジン、2019、104 頁)
アン・ヒジョン側の弁護団はこの事件をできるだけ「不倫」へと追いやり、被害者の政治的性向を疑問に付すやり方をつくりあげた。誰が何の裁判を受けているのか混乱するほどだった。アン・ヒジョンが権力型性暴力で裁判を受けねばならない法廷では、事件関連の証言が不倫の状況として配置されることが許容され、その結果妻の証言が終わるやいなや、あらゆる記事のコメント欄が「本当の被害者は妻」という内容で塗り固められた。MeToo運動に対する韓国進歩男性エリートの思考回路と裁判部の性認識が完全に一致する瞬間だった。(クォンキム・ヒョンヨン、2019a、49 頁)
2018年7月27日、アン・ヒジョンは第一審の法廷証言で「どうすれば地位が人権を奪うことができますか?」という目眩ましのような言葉を発した。人ではなく「地位」が人権を奪うはずがない、という威力による権力行使それ自体を認めない言葉を発した。
アンヒジョンが何も準備してこなかったことをよく見せてくれるあの非文法的な一言は、逆説的にこのかんの法廷がいかにアン・ヒジョンにとって安穏とできる空間であったのかを示している。おそらく性暴力事件の傍聴をしたことがある人であれば誰もが共感する話だろうが、加害者たちは驚くべきことに弁明を緻密に準備してこない。前後が合わない陳述をすることもあるし、事件の状況を積極的に説明することよりも自分がいかに社会的に必要な人間なのかを、そしてこれからいかに一生懸命生きていくのかを証明することに時間を使いもする。
20年前、私が初めて性暴力事件を傍聴した時には、そんなふうに陳述する加害者をみて簡単に〔被害者が〕勝てるだろうと考えた。しかし錯覚だった。裁判で勝つ自信がある加害者のみが、あんなふうに大した準備もせずに来るということを後に知った。アン・ヒジョンのあの言葉を聞いて、私はかなり不吉な予感がよぎった。(クォンキム・ヒョンヨン、2019a、52 頁)
自分が罪に問われた法廷においてさえ自分の権力と結びついた人的ネットワークの中で安穏とできる余裕ゆえに、上のような法廷での発言も自ら簡単に許してしまったということだろう。そして、2018年8月14日、第一審はアンの言葉が真実であると判断し、あたかもアンの欺瞞的な言葉を受け入れたかのように「業務上、垂直的・権力的関係によって被害者の自由意志を制圧するに充分な程度の地位・職責・影響力など威力が存在したが、行使はしなかった」と述べ、アンの無罪を宣告した。
しかし2019年2月には二審で3年6か月の懲役の有罪判決が下され、2019年9月には三審で二審判決支持判決が下され、アンは刑務所に入った。しかし2020年7月にアンの母が死亡した時、刑が一時停止される中で葬儀が行われ、アンと多くの政治家たちがやりとりを交わす場面が報道された。また、アンの側近たちがキム・ジウンを誹謗する書き込みをしたなどの裁判は現在進行中である。
この裁判過程はアン・ヒジョン側がいかなる方法で事件を「解決」しようとしたのかを如実に見せてくれる。そこでは裁判部も含めた巨大な権力ネットワークが動き、「不倫」という枠組みで事件を囲い込もうとした。そしてそれは一審段階では「成功」するほどの力を見せたのだ。アンは巨大な権力ネットワークの中心であり、そのネットワークを利用して利益を得たい人々が集った。そこに集う人々は、裁判で何とかアンを無罪にすることで既存の利害関係を維持するために、ありとあらゆる方法を動員した。いわゆる「進歩的」政治家が動員したこのようなやり方を通して男性連帯の根強さが露わになった裁判であった。
参照文献
オ・ヘジン(2019)『至極文学的な趣向』五月の春(오혜진『지극히 문학적인 취향』오월의봄)。
キム・ジウン(2020)『キム・ジウンです アン・ヒジョン性暴力告発554日間の記録』ボムアラム(김지은『김지은입니다 안희정 성폭력 고발 554일간의 기록』봄알람)。
キムホン・ミリ(2019)「その日以降のフェミニズム」『誰が女性を殺すのか』(김홍미리「그날 이후의 페미니즘」『누가 여성을 죽이는가 여성혐오와 페미니즘의 격발』돌베개)。
クォンキム・ヒョンヨン(2018a)「序文」『被害と加害のフェミニズム』教養人(권김현영「들어가는 글」『피해와 가해의 페미니즘』교양인)。
クォンキム・ヒョンヨン(2018b)「性暴力二次加害と被害者中心主義の問題」『被害と加害のフェミニズム』教養人(권김현영「성폭력2차가해와 피해자 중심주의의 문제」『피해와 가해의 페미니즘』교양인)。
クォンキム・ヒョンヨン(2019a)「その男たちの「女性問題」」『MeTooの政治学』教養人(권김현영「그 남자들의 ‘여자 문제’」『미투의 정치학』교양인)。
クォンキム・ヒョンヨン(2019b)『二度とそれ以前には戻らないだろう』ヒューマニスト(권김현영『다시는 그전으로 돌아가지 않을 것이다』휴머니스트)。
クォンキム・ヒョンヨン(2020)『いつもそうだったように道を探し出すだろう』ヒューマニスト(권김현영『늘 그랬듯이 길을 찾아낼 것이다』휴머니스트)。
ソン・ヒジョン(2020)『再び、書く、世界』五月の春(손희정『다시, 쓰는, 세계』오월의 봄)。
チョン・ヒジン(2019)「女性に対する暴力とMeToo運動」『MeTooの政治学』教養人(정희진「여성에 대한 폭력과 미투 운동」『미투의 정치학』교양인)。